ダヴェンポート
1849〜54年 染付で DAVENPORT の窯印
ティー・カップ:H=64mm、D=76mm/ソーサー:D=141mm
 朱赤とペール・オレンジ(肌色)の二色に塗り分けた地色に、文様は金彩のみで描かれている。地色一色か二色に金彩のみというのは、19世紀後半のダヴェンポート製ティーウエアの大きな特徴であるが、本品はその中でも最も複雑な要素を統合したカップ&ソーサーである。
 この作品の中に見られる文様デザインは、エカイユ(鱗文=スケール)、アカンサス、ロゼット、ヴェルミキュール(虫這い文)、ロココCスクロール、ゴシック格子、フェストゥーン(花綱)、コーミング(櫛形文様)など、発祥や時代性が多岐に渡っている。様々な文様でこれでもかと埋め尽くされた意匠であるが、絶妙のバランス感覚で全体が統一されている。中でも華やかさと軽妙さを併せ持った格子文と、精巧な白抜きヘアラインで描かれたアカンサス葉文の二つは、本品図柄中の双璧といえる。
 ペール・オレンジ(エカイユ文)の部分はレリーフ(エンボス)に造形され、これと類似したデザイン専用のものである。ハンドルは扁平な楕円形の「フラトゥンド・リング・ハンドル」で、僅かに隆起したサムレスト(親指掛け)の名残りの部分には、本体にも用いられているコーミング仕上げが施されている。ハンドルの内側には漸増減ドット文があしらわれている。
 この図柄は1849年に意匠登録されたが、その後三十年以上が経過した1880年代に、ダービー・クラウン・ポーセリンが同じ色合い、同じ図柄の作品を製造している。
 



ダヴェンポート
1830〜37年 紫のエナメルで DAVENPORT LONGPORT STAFFORDSHIRE, MANUFACTURER TO THEIR MAJESTIES の窯印
ティー・カップ:H=52mm、D=101mm/ソーサー:D=161mm
 本品は厚手のボーンチャイナで造られ、更に厚みを持たせて随所にレリーフ装飾が施されている。カップとソーサーの口縁は一段と厚く仕上げられ、巻き上がった葉型のレリーフがそれぞれ六か所あり、そこから伸びる隆起した縦線が造形されている。本サイトの「オールコック」「ジョン・イエーツ」「ヒックス、メイ&ジョンソン」の作品でも見られるように、口縁に立体造形があるカップ&ソーサーは、1830年代(ウィリアム四世時代)の典型的作例である。本品に使用された窯印は「ダヴェンポートのロイヤル・マーク」と呼ばれ、「MANUFACTURER TO THEIR MAJESTIES」 というのは、「ウィリアム四世のための陶工」という意味に相当する。窯印の使用期間はウィリアム四世の在位期間(1830〜37年)と合致する。
 他に「アンティーク・カップ&ソウサー」p.62に、貝殻形の口縁レリーフを持つH.&R.ダニエル製のカップ&ソーサーが掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 ハンドルはブロークン・ループの派生であるが、他に類例のない複雑な構成を見せている。最下段のC形は、家具や鎧に使われる留め金具を模したもので、二段目のメイン・ループは羽根の造形を用いたフェザー形、最上段はスクロール・エンドを持つC形二個を背中合わせに接合したデザインとなっている。ペディスタル付きながら腰が低いどっしりとした造形のカップに、力強いハンドルが付いた骨太なカップ&ソーサーだが、色絵は可憐な花束で、薔薇や朝顔、チューリップ、マリーゴールド、ガーベラなどが描かれている。
 本品にはコーヒー・カップが添っており、トリオのセットになっている。
 



ダヴェンポート
1870〜86年 染付で DAVENPORT LONGPORT の窯印
ティー・カップ:H=67mm、D=76mm/ソーサー:D=141mm
 本品はダヴェンポート社の終末期に製造され、プリント下絵に緑、赤、ピンク、金彩で、イスラム由来のアラベスク文様が描かれている。口縁周りには、シルクロード圏域によく見られる唐草・唐花文様が用いられ、全体の雰囲気はエキゾティックな方向性で統一されている。磁胎と釉薬は上質で、三点の支えによる宙焼きで仕上げられ、高台に目跡が付いている。
 類似した図柄でハンドル形状の異なる作品が「アンティーク・カップ&ソウサー」p.139に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 



ダヴェンポート
1815〜25年 茶色で錨と DAVENPORT の窯印
コーヒーカップ:H=68mm、D=70mm/ソーサー:D=126mm
 この作品はマイルズ・メイソンで盛んに製造されたポリンジャー・シェイプのティーカップに倣った、ポリンジャー・タイプのコーヒー・カップで、マイルズ・メイソンと共通の、サム・レスト付きリング・ハンドルが付けられている。しかし磁器の材質はマイルズ・メイソンに比べて極めて高品質であり、この時期のダヴェンポート社では、既に均質で堅牢なボーンチャイナが完成していたことがよくわかる。
 絵柄はナントガーウ窯の完全コピーで、ロンドンで好まれたフランス風の豪華な金彩文様が施されている。ナントガーウ由来のこのデザインは、コールポート社でも同一の完全な写しが製作された。
 



ダヴェンポート
1825〜35年 茶色で錨と DAVENPORT の窯印
ティーカップ:H=60mm、D=96mm/ソーサー:D=143mm
 本品はややクリーム色がかったボーンチャイナで作られている。この素磁は焼き締まりが悪く、脆い性質だったため、短期のうちに改良され、後年は用いられなくなった。このタイプのボーンチャイナがクリーム色を呈しているのは経年変化の結果と言われ、百八十年前の製造当初はもっと白かったということである。
 形状はH.&R.ダニエル社のファースト・ガドルーン・シェイプを模造したもので、口縁のエンボス装飾とやや細かい山道の造作も、ダニエルの同型シェイプをコピーしたものである。小振りのハンドルも、ダニエルのファースト・ガドルーン・ハンドルを模倣している。
 絵柄もダニエル・タイプで、このように地色の塗り潰しの中に花絵を描き入れるのは、ダニエルで頻繁にデザインされた意匠である(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.61参照)。
 これらの要素を総合すると、本品は全体にH.&R.ダニエル社の模作という企画の下で製作されたものと考えられる。
 




ダヴェンポート
1815〜25年
ティーカップ:H=53mm、D=87mm/ソーサー:D=139mm
 ジョン・ダヴェンポートは1765年、リークのダービー・ストリートに生まれた。六歳で父を失ったジョンは、未亡人となった母を助け、貧しい家計を支えるため、すぐに小学校を辞めて働きに出た。十代の頃は銀行で小使い勤めをしていたとされる。
 1785年、二十歳でリヴァプールのトーマス・ウルフが経営する「イズリントン・チャイナ・ワークス」に入り、三年後の1788年には共同経営者となった。ダヴェンポートはここで窯業の経験を積むとともに資金を蓄え、1794年にロングポートの陶器工場「ユニコーン・バンクス」を買収した。この工場はロングポート初の陶窯で、1773年からジョン・ブリンドレイとジェイムズ・ブリンドレイの兄弟が経営していたものである。
 ジョン・ダヴェンポートが独立した後、イズリントン・チャイナ・ワークスではマイルズ・メイソンがトーマス・ウルフの新たなパートナーになった。
 一国一城の主となったダヴェンポートは、翌1795年に結婚したが、同年ジョサイア・ウェッジウッド一世が亡くなった。父の跡を継いだジョサイア・ウェッジウッド二世は、他の窯業者との融和策を図り、1796年、ウェッジウッド、ニューホール、ウィリアム・アダムズ、ジョン&ジョージ・ロジャーズ、ジョン・ダヴェンポート以下、十八社の合従連衡が成り、ここにスタッフォードシャー窯業群陶土共同使用組合「ポターズ・クレイ・カンパニー」が発足した。
 初期ダヴェンポートでは、この会社を通じて供給されるウェッジウッド社と同質の陶土を使い、ジョサイア・ウェッジウッド一世のクリーム・ウエアをデザインごとコピーした模造品を作った。
 ダヴェンポートはこれと平行して磁器製造をもくろみ、製法の勉強のためにフランスを訪れた。記録は残されていないが、1795〜1800年の間のこととされる。1800年代に入ると、ハイブリッド・ハード・ペースト(擬似硬質磁器)が完成し、間もなくスポード社のボーンチャイナ開発に触発されて、ダヴェンポート社でも雄牛の骨灰25〜50%含有のボーンチャイナを製造し始めた。
 ダヴェンポートは陶器、磁器ばかりでなく、ガラス工業の経営者としても有力で、1801年からロングポートで始めたガラス製造は、以後ダヴェンポート社の主要産業部門であり続けた。1805年にはガラス事業も軌道に乗り、法律家トーマス・キナーズレイとガラス製造者グラフトンの資本を入れ、ガラス工場は発展した。
 1804年にはジョン・ハリソンの「クリフ・バンク・ポタリー」を買収し、これをウィリアム・アダムズに貸すといった投資も行っている。また1810年には、ウォルター・ダニエルが所有するニューポートのアーザン・ウエア(陶器)工場を買収した。
 1806年、英国皇太子(後のジョージ四世)と弟のクラレンス公(後のウィリアム四世)がスタッフォードシャー地方に行啓し、スポード社、ウェッジウッド社とともにダヴェンポート社の工場を訪問した。この頃既にダヴェンポート社は、スタッフォードシャー地方の三大工場と目されるまでに成長していたのである。以後皇太子の摂政時代(1811〜20)、ジョージ四世時代(1820〜30)、ウィリアム四世時代(1830〜37)を通じて、ダヴェンポート社は王室御用達となった。
 皇太子訪問の翌1807年には、ロンドンのシェイクスピア・ギャラリーを借りてショールームとし、1812年にはいとこのジェイムズ・ダヴェンポートと提携して、彼にリヴァプールのショールームを担当させた。1818年にはロンドンのフリート・ストリートの建物を借りて、販売規模を拡充した。また同1818年頃から、ドイツのハンブルクに販売店を出した。これはダヴェンポートの親戚筋が18世紀以来ハンブルクに住んでおり、いとこにあたるユリア・ダヴェンポートとジョゼフ・ダヴェンポート(どちらもハンブルク在住)に依頼して、商売を展開したものである。この前年のハンブルク視察と交渉には、当時十七歳だった次男のヘンリー・ダヴェンポートが派遣された。ヘンリーはこの出来事を機に会社経営に参画し、1820年頃には彼の指導でロングポート工場の年中無休操業を達成し、1830年代にかけての間に、北米、カナダ、スペイン、イタリア、アルゼンチン、メキシコ、ペルー、インドへ販路を伸ばし、世界的な企業になっていった。
 1820年にはロンドンの販売所にヘンリー・ポンティグニーが資本参加し、1823年からは息子のヴィクター・ポンティグニーも参加した。1825年にいとこのジェイムズ・ダヴェンポートが亡くなると、リヴァプールの販売所は地元のマウントフォード・フィニーを参画させて、彼に担当させた。同1825年、ロンドン販売所のヘンリー・ポンティグニーが、総本山のロングポート工場へ資本参加することとなった。しかし翌1826年には、早くもポンティグニーとダヴェンポートの友情は崩壊する。ポンティグニーはジョンの次男で実質的な実務経営者であったヘンリー・ダヴェンポートに宛てて、彼の父ジョン・ダヴェンポートが、六年間も会社の売り上げに貢献してきた自分に対し、不当に冷酷非道で、隷属的な扱いをする、と訴えた悲痛な手紙を、何通も送っている。遠く離れたロンドンでは気付かなかったジョン・ダヴェンポートの性格が、より深く経営に関与するようになって初めて明らかになったということであろう。
 当時六十歳を過ぎていたジョン・ダヴェンポートは、加齢に従って頑固になり、考え方は独善的で、他人に対して無慈悲な性格に変わったという。金銭的にも吝嗇で、メイソン窯の研究家レジナルド・ハッガーは、自著の中でジョン・ダヴェンポートを「因業爺い」と切り捨てている。次男ヘンリーと三男ウィリアムは(長男ジョン二世は窯業を継がなかった)、父の行状を公然と批判したし、会社経営からの引退を迫ったが、ジョン・ダヴェンポートは強情にもこれらの要求を拒絶した。
 そこでヘンリー・ポンティグニーは、ダヴェンポート社に対する自分のシェア8500ポンド(12.5%)を、一括して買い取るように迫り、1827年には会社を去った。しかし息子のヴィクター・ポンティグニーは、そのままロンドンのショールームを担当し続けた。これは多分にヘンリー・ダヴェンポートとの人間関係によるものであった。ヘンリーは鷹揚で尊大さがなく、悩みの相談や頼みごとをきちんと受ける仁徳者だった。
 ジョン・ダヴェンポートは1830年頃には窯業経営から引退したが、ヘンリーは無聊の日々を託つ父に人生の花道を付けようと考え、議会への立候補を勧めた。ジョンは1831年の選挙でジョサイア・ウエッジウッド二世とともに当選して国会議員となった。1835年には再選され、このときは同じスタッフォードシャー地方から、1829年にスポード社を買収して間もないウィリアム・テイラー・コープランドが当選し、ともに国会議員となった。
 ジョン・ダヴェンポートの再選から十か月ほど過ぎた1835年11月13日、狩猟好きだったヘンリー・ダヴェンポートは狩りの最中に落馬し、三十五歳の若さで父を残して急逝した。そこで会社は以後、三男ウィリアムが引き継ぐことになった。
 ジョン・ダヴェンポートの陰険な性格について、ダヴェンポート研究の第一人者T.A.ロケットは、経営学校や商業大学など今日の我々には大変馴染みがある教育機関がなかった窯業初期の時代には、社員への手ひどい扱いは常套であった、と自著の中で述べている。そしてロケットは言外に、ジョン・ダヴェンポートが文盲であった可能性を示唆する。
 「羽ペンを持った祐筆がいて、もし幸運な場合は、読み書きができる従僕の二・三人がいる。手紙は無くされたり返信されなかったり、誤った金額が記入された借用証や請求書が見逃されたりしても不思議ではない」
 こうしたことがジョン・ダヴェンポートと社員との意思の不疎通、彼の性格への曲解を生んだのであろうか。ろくに学校へも行かず、六歳から働き出したジョン・ダヴェンポートが、自分で書類の管理・理解ができないほど読み書きに不自由していたとすれば、彼の生き様に対する評価も、また別の解釈ができるということになろう。
 ダヴェンポート社は、中興の立役者であったヘンリー・ダヴェンポートを突然失ったが、亡きヘンリーが成し遂げた年中無休操業や、全世界への販売店舗展開のおかげで同社の名声は高まり、1830年代にはウィリアムソン&Co. の工場、1840年代に入ると旧エドワード・ボーン所有の工場を買収して、弟のウィリアム・ダヴェンポートは生産規模を拡張し続けた。
 ナポレオン一世の下で帝立セーヴル窯のディレクターを務めたアレクサンドル・ブロンニャールが、1836年に出版した「陶磁器芸術の概論」の中に、英国窯業者の代表格としてのダヴェンポート社の有様が記述されている。それによればロングポートのユニコーン・バンクス工場、同ガラス工場、ニューポート工場を合わせた従業員は千四百人を数えたという。ダヴェンポート社は、スタッフォードシャー窯業群の筆頭企業と目されるコープランド社(元スポード。従業員数約千人)を凌ぎ、英国最大級の事業規模を誇っていたことがわかる。国際的な販売網に関わる海外在住の人数を足せば、より大きな組織になると考えられる。
 しかしながら多くの労働者の中には、安い賃金で便利に使い捨てられる、かわいそうな子供達がいて、彼らが工場の重要な生産力の一端を担っていたことは、否定できない事実だった。産業革命の波に乗って製造業が伸長した1840〜60年代のイギリスでは、炭鉱のみならず窯業においても、人権なき扱いをされる子供達の労働力によって、企業の儲けが膨らんでいった。無論ダヴェンポート社も例外ではない。焼き物の素晴らしさ、アンティーク食器の美しさ、偉大な経営者ファミリーの成功美談にばかりスポットライトを当てたがるのが日本の風潮であるが、そのきらびやかな装飾芸術の陰には、辛く恐ろしい地獄を見た多くの子供達がいることを決して忘れてはならない。窯業にもそのような暗澹たる金儲けの時代があったことを知るべきである。
 ダヴェンポート社に六〜七歳で働きに出されたロングポート近辺の子供達は、まず手始めに工場の地下の暗闇に放り込まれる。ネズミの糞尿のすえた悪臭の中、燃えかすを集めた屑蝋燭の薄暗い明かりを頼りに、磁土の型抜き成形作業をするのが修業の始まりである。八歳になるとハンドル作りができるようになり、入窯から三年の辛抱を経て九歳になると、ようやく賃金が支払われる。それまではタダ働きという契約である。しかし週に1シリング6ペンス〜2シリングの僅かな金を得るために、70〜80時間(週)も働かねばならない。朝四時〜五時には家を出て、帰り着くのは夜の九時〜十時となる。イギリスは夏の昼間の時間は長いが、冬ともなれば星を仰いで勤めに向かい、再び星を仰いで家路を辿る毎日が続いたはずである。ここに見られるカップ&ソーサーも、年少の子供達が型を抜き、年長の子供達がハンドルを取り付け、工場の不衛生な暗闇の中から生まれ出てきた作品であるということを、肝に銘じておきたいと思う。
 創業者で因業を極めたジョン・ダヴェンポートは、1848年に八十三歳で亡くなったが、結局ウィリアム・ダヴェンポートもまた、父と同様に冷酷で、似非貴族的な振る舞いを好む差別的経営者になっていった。
 会社に勢いがあったウィリアムの時代には、ダヴェンポート社は大きな困難に見舞われることなく経営を続けた。1869年にウィリアムが亡くなると、一人息子のヘンリーが父の信託財産や家屋敷の抵当権を継ぎ、会社組織の再編を行って、株式はダヴェンポート家の親族一同にも分配された。
 やがて1880年代に入るとダヴェンポート社の国際収支は急速に悪化し、ニューヨークをはじめとする世界中の小売販売店舗からは、何百、何千ポンドという巨額の赤字が次々に報告されるようになった。これに伴いロングポート工場の収支も悪化し、数万ポンドに及ぶ在庫や資産をすり減らす結果となった。本国ではリヴァプールの販売店だけは黒字を保って気炎を吐いたが、事業衰退への歯止めにはならなかった。
 会社ではニューポート工場を手放すなどの対策を打ったが、1885年には事業撤退の道筋が親族間で相談された。翌1886年七月に、窯の在庫セールや資産処分を行って、ロングポート工場における製磁・販売事業は終了した。廃窯となったダヴェンポート社は、その後再興されることはなかった。1869年にヘンリーが父ウィリアムから会社を引き継いでから数えて、十七年目の出来事である。

 ここに掲載した作品は、ダヴェンポート社がスポードに倣って開発したボーンチャイナで製造したカップ&ソーサーで、形はロンドン・シェイプである。このティーカップ&ソーサーにはコーヒーカップが添っており、トリオのセットになっている。
 繊細な金彩と丁寧に描かれた多彩な花絵が特徴で、口縁の内外には金彩で「五連輪繋ぎ文」が描かれている。このデザインはコールポート社と共通で(→コールポートのページ参照)、カップ見込みとソーサー中央部の金彩文様も、コールポート社と同一の意匠になっている。
 しかし造形と磁器の材質に関してはダヴェンポート社の方が優れており、艶と透明感のある滑らかな釉薬に覆われ、細部まで鋭く仕上げられたモールドで作られた本品は、同一企画のコールポート社製品を、白磁の品格において凌駕している。
 

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