ヴィノーヴォ(第二期)
1800〜15年 黒で十字の窯印
コーヒー・カップ:H=84mm、D=71mm/スタンド:D=133mm
 現在のピエモンテ州トリノ県ヴィノーヴォにあった「ヴィノーヴォ窯」は、多くのイタリア人がマイセン、セーヴル、ウィーンの三大窯を抑えて「世界で最も優れた磁器窯である」と本気で主張する名窯である。日本でイタリアの磁器窯といえば、フィレンツェ近郊のドッチア窯(ジノリ)が突出して有名であるが、イタリア人はジノリ窯など歯牙にもかけず、磁器窯といえばサルディーニャ王国の王立窯「ヴィノーヴォ」であると言う。しかもその品質は「世界一」と賞して憚らない。筆者はヴィノーヴォ窯の焼き物が「世界一」であるという説には異論を唱えたいが、イタリア人の愛国心を差し引いて考えても、「ヴィノーヴォ窯」がイタリアの歴史上で最も優れた磁器窯である、という判断については正しいと思う。
 ヴィノーヴォ窯は1780年、自然科学者のドットーレ・ヴィットーリオ・アマデーオ・ジョアネッティ(1729〜1815)によって、トリノ近郊のヴィノーヴォ王宮内に開設された。人名冒頭の「ドットーレ」とは「ドクター=博士」の意味で、称号である。彼の専門は土壌改良と土壌の変性・変質学で、三十年の学術経験から得た知識によってカオリン鉱脈を発見したジョアネッティは、鉱物標本を政府に提出し、サルディーニャ王国から磁器窯業開設の勅許を獲得した。
 トリノ県のヴィノーヴォを支配していたサルディーニャ王国は、1720年以降サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ二世の子孫によって領有され、1770年代は治世三代目にあたるヴィットーリオ・アメデーオ三世が国王であった。1776年には、トリノからやってきたジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ブローデルが、ストラスブール窯ハンノン一族の出身であるパウル・アントン・ハンノン(ポール・アントワーヌ・アノン)の協力を得て、既にヴィノーヴォに磁器窯業を開設していた(第一期ヴィノーヴォ窯)。ハンノンは治世二代目である先代国王のカルロ・エマヌエーレ三世から、1765年八月にサルディーニャ王国における磁器窯業開設の勅許を得ており、十一年も昔に発行された勅許状を利用しての開窯であった。しかし第一期ヴィノーヴォ窯では磁器焼成に成功することはなく、1780年、国王ヴィットーリオ・アメデーオ三世直々の命令によって、強制的にブローデル窯は閉鎖させられた。ジョアネッティの第二期ヴィノーヴォ窯は同1780年に開設されているので、ジョアネッティ側からの何らかの政治的工作があった可能性が高い。
 新しい第二期ヴィノーヴォ窯(ドットーレ・ジョアネッティ窯)は、経営的に大成功をおさめた。パリの磁器窯業に対してフランス政府が色絵・金彩の使用を許可したのと同じ1784年に発行された、創業四年目のヴィノーヴォ窯のセールス広告が残っており、そこには二千点もの磁器作品の展示販売会が王宮で開催される有様が記されており、ヴィノーヴォ窯の盛況ぶりが伺える。
 ヴィノーヴォ窯は、サルディーニャ王国がナポレオン戦争の渦中にあって苦しんだ時期も順調に経営されたが、ナポレオンの失脚と同じ1815年に、創業者のヴィットーリオ・アマデーオ・ジョアネッティが亡くなると徐々に衰退し、1820年までの五年間をジョヴァンニ・ロメッロの采配で経営された後、閉窯となった。
 ここでは1800年代初頭に製作された「エンパイア・シェイプ」の作品を紹介する。「エンパイア・シェイプ」はナポレオンが好んだギリシア・ローマ時代の陶器作品を模してデザインされ、「エンパイア(アンピール)様式」の食器を代表する形状である。本品ではラッパ状に開いた口縁部、本体との接合部(くびれ部)には隆起線、二重ペディスタルという要素が盛り込まれている。ソーサーもペディスタル付きの造形になっている。
 ハンドルは上端部が扇状に開いた羽飾りの造形、下端部には白鳥の頭が造形されており、典型的なエンパイア様式のハンドル・デザインが採用されている。
 金彩では盛金(レイズド・ゴールド)の鋲並び装飾が二列あしらわれ、ニードル描き(チェイシング)で蔓線文様が加えられている。
 色絵の顔料はマット(艶消し)で仕上げられ、ギリシア・ローマ風の鋸歯文と古典的な撫子文、エジプト風の立花文が、幾何学的な枠内に配置されている。
 


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