ミントン
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1830〜35年 |
コーヒー・カップ:H=62mm、D=72mm、ティー・カップ:H=50mm、D=92mm/ソーサー:D=149mm
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本品は1830年代のミントン社が製造した風景画入りのティーセットを代表する作品で、同社ではこれを「Cシェイプ」もしくは「バース・エンボスト・シェイプ」と呼んでいる。中指掛けの深い湾曲が特徴のハンドルは、シェイプ名になぞらえて、後に「バース・ハンドル」と呼ばれるようになった。 クリムゾン・レッドの地色に金彩の枠装飾でリザーヴされた白抜きパネルをしつらえ、田舎の自然風景と建築物が描かれている。風景画にはある程度の創作がなされており、実景そのものではないようだが、城館や廃墟を中心に風情のある画面づくりが試みられている。地色はクリムゾンの他に、アップルグリーン、黄、紺、水色、ピンクなどでも製作されている。 ロココ風のCスクロールを伴うフランス趣味の精巧な装飾が金彩で施されているが、この部分は全てエンボス(レリーフ)に造型されており、図柄のとおりに隆起している。平坦な白地には金彩のスリー・ドットを散らし、カップ口縁の内側にはモダンな垂下文様があしらわれている。ティー・カップの見込みには、この垂下文様のパターンを円周化したロゼット文様が、金彩で描かれている 白磁にはミントン窯第二期の作品ならではの上質なボーンチャイナが用いられ、艶のある滑らかな釉薬が施されている。 |
ミントン
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1840〜45年
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コーヒー・カップ:H=67mm、D=79mm/ソーサー:D=145mm
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本品は1830年代(ウィリアム四世時代)のカップ&ソーサーと様式的に共通の要素を示しているが、製造されたのは1840年前後と考えられる。カップには二連ずつの緩やかな縦縞フルート造形があり、口縁外周には葉文様のエンボス(レリーフ)装飾がある。これらは1835年頃の作品に顕著に現れる特徴である。 また図柄は、セーヴル窯の「ヴェール・ポム(青林檎色)」を模倣した地色を交互のゼブラ・バンド状に施し、地色の上には金彩装飾、白地には色絵の花、という1830年代の約束事に従ったしつらえになっている。 花絵は、ソーサー中央にチューリップ、カップ見込みにはバラの蕾が描かれ、朝顔、ガーベラ、ポピー、パンジー、百合、薔薇、マリーゴールドなど、馴染みのあるガーデン・フラワーが華やかに描かれている。金彩文様のCスクロールその他を見てもわかるように、本品はフランス磁器のデザインをコピーしたもので、花を一輪ずつ描き入れてゆく手法は、セーヴル窯第一ロココ装飾第二期(ルイ十六世時代)に確立された意匠である。 ハンドルはエンツウィンド(二本ひねり)・ハンドルで、ソーサー中央の窪みはない。 |
ミントン
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1853〜58年
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コーヒー・カップ:H=66mm、D=74mm/ソーサー:D=142mm
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本品は1851年のロンドン万博以降のフランス磁器ブームと、翌1852年にサウス・ケンジントンに開館した装飾工芸博物館(現・ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム)の展示品に対するコピー・ブームを背景として製作された。 素磁はボーンチャイナだが、形状はセーヴル窯の「ゴブレ・エベール型」のコピーで、カップとソーサーの高台脇にはそれぞれ、セーヴル旧軟質磁器に見られる吊し焼きの跡穴を模した窪みが造形されている。ただしソーサーは、エベール型に特有の稜線・輪花の造形になっていないので、同様の企画のコールポート窯製品の方が、より完全なセーヴル写しということになる(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.115参照)。 絵柄は松枝型に白抜きされたパネル内に、紅白の薔薇やポピーをはじめとする多種の花絵が描き込まれている。この花絵にはあまり勢いがなく、迫力に乏しい。 地色は「青林檎色」と称されるセーヴル窯の「ヴェール・ポム」を模したもので、全体に「ウーイ・ド・ペルドリ=イワシャコ(ヨーロッパヤマウズラ)の目」という文様が施されている(→チェルシーのページ参照)。この地文様もセーヴル窯の模倣で、本品では目玉文様の外線が波打ち、八つの凹凸ができているが、このようなヴァリエーションもセーヴル窯製品にしばしば用いられたデザインであり、ミントン社のオリジナルではない。したがって本品のパネル絵、地色、地文様のスタイルは、いずれもセーヴル窯第一ロココ時代第一期装飾を写したものだといえる。 ミントン社は1840年代初頭からセーヴル磁器のコピー品を製作する方針をたて、1851年のロンドン万博以後には、これを一層強化して推進した。1870年代には普仏戦争の戦火を逃れてイギリスに移住したフランス人磁器職人を積極的に雇い、セーヴル窯由来の技術や芸風を取り込んでいった。ミントン社では工場内の公用語をフランス語とし、フランス人職人の労働環境を整えることによって、より多くの外国人職人の流入を助けた。「国際化」が他の先進文化の移転・模倣だった1870年代に、ミントン社ではアントニン・ブルミエやマルク・ルイ・ソロンなどのフランス人達の活躍によって、製品デザインの大陸化をはかり、1878年のパリ万博には、フランス趣味の作品を逆に本家に持ち込んで勝負した(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.140参照)。 このような磁器芸術の在り方と外国人職人の移動は、同じスタッフォードシャー地方のコープランド社やウェッジウッド社に大きな影響を与え、パリ万博が開催された1878年には、ウェッジウッド社がボーンチャイナの製造を約半世紀ぶりに再開した。また同1878年からようやく製品の流通が始まった新興企業のダービー・クラウン・ポーセリン(後のロイヤル・クラウン・ダービー)でも、同社の特徴である伊万里写しばかりでなく、次第にフランス趣味のデザインの重要度を認識するようになっていった。 |
ミントン
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1840年頃
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ティー・カップ:H=54mm、D=105mm/ソーサー:D=150mm
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ミントン社では磁器製造を開始した当初から、田舎の建物や城館を描いた風景画を多く作っており、トーマス・ミントン(1765〜1836)の死後、ハーバート・ミントンに経営が代った1840年代初頭から、このような風景画を描いたティーウエアの製造が急増した。風景画はもともとミントン窯のお家芸であったが、1830年代から高級路線を志向して他窯の絵付け師を招いたトーマス・ミントンと、その体制を引き継いだハーバートの下で、1840年代には赤や黄色、緑や紺の地色にフランス風の金彩文様を施した風景画のティーウエアが、大量に作られていった。 本品はミントン社で「Qシェイプ」と呼ばれたブロークン・ループ・ハンドルにペディスタル付きのカップで、口縁にはエンボスで羽文様があしらわれている。これはウィリアム四世からヴィクトリア女王初期(1835〜45年)にかけて流行した様式である。 地色は黄緑色とペール・オレンジ二色を組み合わせたフランス由来のもので、金彩ではロココ風の格子とCスクロール、葡萄の実と蔓などが手描きで施されている。 白抜き部分には田舎の風景が伝統的な配色と手法で描かれている。1830〜40年代のミントン窯では、このような風景画を絵付け師の裁量には任せず、窯が所有する風景パターンの原画から、適当なものを組み合わせて描かせていた。したがって必ずしも多種多様なパターンが残されたというわけではなく、同じ構図の館の絵を見かけることが多い。 本品と同じ地色と金彩パターンで、白抜き部分に花絵を描いた作品が「アンティーク・カップ&ソウサー」p.66に掲載してあるので、ご参照いただきたい。 |
ミントン
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1824〜30年
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コーヒー・カップ:H=65mm、D=80mm/ソーサー:D=142mm
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トーマス・ミントン(1765〜1836)は、従来の陶器製造に加えて1799年からボーンチャイナを導入・販売していたが、初期の磁胎は脆く、釉薬は「クレージング」と呼ばれる細かいヒビが入りがちで、品質において芳しくなかった。現在では経年変化のため、これらのボーンチャイナはクリーム色がかってしまっている。そこで1803年にレインエンドのジョン・ターナーを招き、1804〜06年にかけて新しいボーンチャイナの開発に成功した。 ミントン社の磁器事業は1806〜08年に著しく伸長し、1810年代にはスタッフォードシャー地方で最有力の窯業者と目されるようになった。しかし新しい優れたボーンチャイナは、トーマスの長男トーマス・ウェッブと次男ハーバートが窯の経営に参加すると間もなく、1816年に製造が打ち切られてしまう(第一期ミントン磁器)。 1817年には二人の息子に出資させて株主に加え、会社は「ミントン&サンズ」となった。しかし同年より次第に経営が悪化し、1822年いっぱいで兄弟が株主からはずれ、兄は教会の牧師となり、ハーバートだけが窯に残った。トーマスはこのことを機にボーンチャイナの製造再開に向けて動き出し、1824年から再び磁器の供給を開始した(第二期ミントン磁器)。 第二期のミントン白磁と第一期の白磁とでは品質に相違がある。第二期の磁胎はやや厚くて重く、釉薬は白く不透明で、堅牢なボーンチャイナになっている。トーマスはボーンチャイナ再開にあたり、ターナー白磁をさらに改良し、スポードの白磁に近い質感の材料配分を新たに完成したと考えられる。 デザイン面も一新され、ロココやネオ・クラシックなど、大陸系のやや古い装飾・造形に基づく作品を発表したが、高級品の多くが洗練されて垢抜けしたスタイルで、ロンドンなどの都会の流行に敏感な貴族の好みに合う華麗な装飾が施された。したがって第二期の作品は、第一期のものとは白磁も加飾も全く別物ととらえるべきである。 1830年代に入ると、スタッフォードシャー地方の窯業は再び不況となり、特に多くの職人を抱えて身動きが取れなくなっていたブルーア期のダービー窯から、一流のアーティストがミントン窯に流入してきた。ダービー窯では経営者のロバート・ブルーアが精神疾患のために窯の指導ができなくなり、不安定な経営が続いていた時期だった。このことはミントン窯の磁器作品の一層の品質向上を決定づける結果となり、造形と芸術の両面で1830年代をリードする企業になっていった。 1832〜47年にかけて、人物画・風景画の名手ジョン・シンプソンがエナメル上絵付けの親方を務め、ブルーア・ダービー様式の色絵作品を製作した。またセーヴル窯やナスト窯などを模したフランス写しの果実絵や花絵で、ブルーア・ダービーで最高の格付けの一人と考えられたトーマス・スティール、フルーツ・貝絵・羽絵といった極めてハイコストな色絵を得意としたジョゼフ・バンクロフト、ピクチャレスク美学で絶妙な風景を描いたヘンリー・ラーク・プラットなど、英国を代表する名だたる絵付け師達が、続々とミントン窯に雇われていった。 このように贅沢な作品を製造する一方で、トーマスはコスト削減も図っている。アーザンウエア製の安価なティー・ウエアとデザート・ウエアに、銅版転写やバット・プリントなどの量産絵付けを導入したのがこの時期である。ボーンチャイナの安価な量産品は、アウトラインだけバット・プリントで絵付けし、着彩は手仕事で行っていた。 品質向上とコスト削減の結果、1824年のボーンチャイナ再開から1836年にトーマス・ミントンが亡くなるまでの十二年間で、ミントン社の売り上げは倍増した。1793年の創立以来、四十三年間にわたってミントン窯を育てあげてきたトーマス・ミントンは、優良企業となった自社の健全な存続に対して相当な未練があったはずだと推察されるが、彼はこの会社をハーバートには残さなかった。ハーバートを後継者にするぐらいならミントン窯は潰れて構わない、というほどの決意で、牧師である兄トーマス・ウェッブに資産を残すよう遺言したのである。 ハーバート・ミントン(1792〜1858)は、まだ学生だった頃から窯の経営に関わり、遅くとも1814年には工場で働いていたことがわかっている。彼はデスクワーク専門の経営者ではなく、製造工程にも参加して窯業技術を基礎から身に付け、職人に友人も多かった。早朝五時には誰もいない工場に一番で出社し、原材料のストックを確認したり、機械類の点検を行った。しかもこうしたストイックな生活を何十年も続けた人物である。窯業への情熱には並々ならぬものがあったことは想像に難くない。しかし偉大な経営者である父トーマスとの間には、同業であるがゆえの厳しい確執があった。 ハーバートは父の事業の範疇になかった新しい商品として、陶製タイルの開発・製造に強い関心を持っていた。トーマスは、このタイル製造は会社経営を危うくするものとして、反対する立場をとっていた。後にミントン社のタイル事業は歴史に残る美しい名品の数々を生み出すことになるが、1830年代当時は研究も初期段階で、製造・販売も鳴かず飛ばすの状況であった。この先行き不透明なベンチャーに膨大な時間と労力を費やした上、大金を投じても成果を出せない息子に対して父は理解を示さず、経営の才覚がない道楽者という烙印を押してしまった。その結果、工場の動産・不動産をはじめとする自分の遺産は長男トーマス・ウェッブに残し、実質的な窯の経営者であったハーバートには遺贈金三千ポンドと会社からの利益のうち25%しか与えないとする、極めて不公平な遺言を執行させた。 当時の窯業は一年間の必要経費(仕入れやリース、燃料等々)が二万〜二万五千ポンド程で、売り上げが倍額以上の四万〜五万ポンドというのが標準的な経営モデルであった。しかしハーバートには三千ポンドしか金が渡らず、窯の財産・内部留保は兄が相続し、遺産管財人は厳格で、この資産を運用して窯の経営を続けることは言うまでもなく不可能だった。しかも遺言執行人は故人の遺志として、ミントン家以外の他人との資本提携や、外部からの経営参加も禁止した。これによりハーバートには資金調達の道が閉ざされ、父の死の翌1837年度の経営に、早くも行き詰まることが明らかになった。自己資金のみでは仕入れも何もできない状態である。 このような遺言によって、一年を待たずにミントン窯が倒産の危機に陥ることは、当然父トーマスは熟知していた。それでもなお、ハーバートにミントン窯を渡すことを拒否したのである。この事情について、ハーバートに子供がいなかったことをあげる説もある。ハーバートは1819年に、ニューホール窯の有力株主だったサミュエル・ホリンズの娘アンと結婚している。トーマスが亡くなる1836年にはハーバートは四十四才、アンは姉さん女房だったため、今後この夫婦に子孫が生まれることはほぼ不可能だと思ったに違いない。それに比べて兄トーマス・ウェッブには、サミュエルという跡継ぎの男の子がいた。遺産を男系の実孫に残したかったのではないか、というのがこの説の根拠である。 しかし今さら窯業経営に戻るとは考えにくい牧師のトーマス・ウェッブに資産を相続させ、ハーバートを窯から追い出して、一体その後の経営を孫にどうさせようというのだろうか。ただ子供がいないという理由だけで、二十年以上朝晩熱心に窯業に取り組んできたハーバートを排除するとは到底考えられない。やはり窯の経営は自分一代でやめてもよい、後継者がなければ窯の資産は兄が競売すればよい、というシナリオを描いた上での遺言だったように思われる。実際のところ、ハーバートという人間のどのような部分がトーマスの気に入らなかったのか、彼の心の闇の部分の真実はわからない。ただ死期を目前にしたトーマスが、ハーバートにミントン窯の経営をさせないような意地の悪い措置を講じてから亡くなったということは事実である。 父に見放されて不当な扱いを受けた挙げ句、経営危機に直面したハーバートは、気持ちが荒んで自暴自棄となった。結局この状況を見るに見かねた兄トーマス・ウェッブが、遺産のうち二万三千ポンドの相続を放棄した。ハーバートの相続分の八倍近い金額を与えたわけであり、父トーマスの遺言が兄弟間でいかにアンバランスなものだったかがよくわかる。この二万三千ポンドにより、ハーバートには翌1837年度の経営にあてる資金ができ、会社を維持できることになった。こうしてハーバートは、父の遺志に反してミントン窯の経営を継続できる環境を勝ち取ったのである。 その後、遺言執行人が部外者との資本提携を認めたため、1836年十一月、ハーバートはジョン・ボイルの資金を入れて、会社は「ミントン&ボイル」となった。しかしこの体制下での商売は成功せず、五年後の1841年十一月にはジョン・ボイルとの提携を解消している。この限りにおいては、父トーマスの見込み通り、ハーバートの会社経営はうまくなかったといえる。 1845年には、故サミュエル・ホリンズの孫で妻アンの甥にあたるマイケル・デイントリー・ホリンズと資本提携して、会社は「ミントン&ホリンズ」となった。続いて1849年に、妹の嫁ぎ先であるリヴァプールの商人ジョン・キャンベルの息子で、甥にあたるコリン・キャンベル(コリン・ミントン−キャンベル)の資本も入れて、会社は「ミントン&Co. 」となった。ハーバートには子孫がなかったため、ミントン社はハーバートの没後、結果的にホリンズ家とキャンベル家のものとなる。 本品は、ミントン社で「Nシェイプ」と呼ばれている形状のコーヒーカップである。ユニークなハンドルのデザインが特徴で、カップ本体には段差があり、また縦縞の僅かな隆起も造形されている。 カップとソーサーには、水色のバンドにネオ・クラシック風の様式的な金彩文様が控え目にあしらわれている。見込みにはそれぞれ多種の花束絵が描かれ、カップの外側手前にはチューリップ、反対側には横裏から見た薔薇が描かれている。 本品と同一形状のティー・カップが「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.71下に掲載してあるので、ご参照いただきたい。ただし書籍掲載品のソーサー中央にはカップを固定するための窪み(井戸)があるので、本品のソーサー形状とは異なっている。 |
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