マルク・シュルシェール(マルク・シェルシェ)
1800〜10年
コーヒー・カップ:H=64mm、D=69mm/ソーサーD=131mm
 マルク・シュルシェール(シェルシェ/1766〜1832)はアルザス地方フェッセンアイム(ドイツ語地名としてフェッセンハイム)に生まれたドイツ系のフランス人で、シュルシェールもしくはシェルシェ(Schoelcher)のドイツ名としての発音は「シェルヒャー」である。彼はフォンテーヌ・オー・ロワ通りにあったラウレンティウス・ルシンガーとジャン・バティスト・ロクレの磁器工場(ロクレ&ルシンガー)で1789年頃から働き、加えて磁器商人としてド・ラ・モネ通りに出店もした。
 彼はサン・ドニ郊外にあったパリの名窯アルトワ伯爵の工房を1798年に35000フランで買収し、独自の窯業を始めた。販売店は高級ギフト店が立ち並んでいたブルヴァール・デジタリアンに構え、この店のすぐ近くにはダゴティ窯の絵付け工房とショップがあった。同じくサン・ドニ郊外に工場があったジャック・ルネ・フルーリー窯(後にフラメン=フルーリー)の製品も一緒に運び、デジタリアン通りの店で扱っていた。
 マルク・シュルシェールは1810年頃までに白磁焼成事業をやめたが、1820年にルーブル宮で開催された博覧会でシュルシェール窯の作品が銀賞を受けているので、デジタリアン通りの店舗で磁器の販売業を主に行いながら、無彩色白磁を購入して、それに上絵付けを施して販売する事業を行っていたと見られる。磁器を焼かなくなったサン・ドニ工場は、1806年に離婚したマルクの妻の財産となり、彼女はこれを1823年に売却している。
 1828年には息子のヴィクトル(1804〜93)を共同経営者に迎えた。ヴィクトルは十五歳になる1819年頃から、磁器の上絵付けと販売という父の事業に参加していた。しかし富裕な父マルクによって贅沢三昧に育てられたヴィクトルは、家業にはあまり興味を示さず、日がな一日手持ち無沙汰に過ごしていたため、このままパリに置いても息子のためにならないと考えた父マルクの裁量により、磁器製品の販路拡大を名目として、ヴィクトルは1830年にメキシコへと送り出された。その際にキューバから小アンティル諸島にかけての西インド諸島の島々で見た、非人道的な奴隷売買と残酷な課役の実態に驚いたヴィクトルは、フランスの奴隷制度を廃止しようと決意するに至る。奴隷の苦しみとはほど遠い幸福な家庭で、何も知らず、何不自由なく成長し、もともと人生にやり甲斐や目標を見付けられていなかったヴィクトルだが、金満家一族の後ろ盾を持った若者が一つの大事に目覚めたら、時間と金を思う存分傾注して突き進むその実行力にはすさまじいものがある。閑居して不善を為すのは小人であって、ヴィクトルのように暇と財産が有り余った(しかもフリーメーソンの)小人ではない人間は、時として偉大な業績を打ち立てるものだ。彼は1848年のフランス奴隷制度廃止の中心人物として尽力し、同国の政治史に永久にその名を刻まれるほど高名な政治家・政策論者となった。そして世界を股に掛けた国際的な活躍と絶大な影響力から、「シュルシェリズム」を信奉する「シュルシェリスト」達を輩出した。ただし、彼にとっては小事に過ぎなかった磁器の上絵付け事業は、父マルク・シュルシェールが1832年に亡くなると間もなくあっさりと見限られ、二年間で大方の既存在庫を売り捌くと1834年にデジタリアン通りの店舗を閉鎖し、ヴィクトルは政治に専念するために一切の窯業から手を引いてしまった。
 ヴィクトル・シュルシェールが父祖以来の生業を放り出してまで血道をあげた奴隷制度廃止運動へと向かわせる端緒を開くもととなった中米・カリブへの旅は、息子に磁器絵付けの事業を引き継いでもらいたかった父マルクの思惑を大きく外す結果となった。しかし後に功成り名を遂げたヴィクトル・シュルシェールは、数種類の切手の中にその肖像を留め、護衛艦「ヴィクトル・シェルシェ号」としてフランス海軍の軍艦にその名を留めている。シュルシェール窯は儚く消え去ったが、ヴィクトルは死してなお、今もフランス国民とともにある。

 シュルシェール窯の製品は、他のフランス民窯に比して水準が高く、特に飴色と焦げ茶色で描かれた鼈甲柄地、青紫色のアゲイト(瑪瑙)地など、いわゆる「トロンプ・ルーイ(騙し絵)」の出来映えは目を疑うほど精密である。ディール&ゲラール窯の「金箔潰し」、ナスト窯の「ア・ラ・モレット(擬似ブロンズ)」、ダルテ窯の「金彩チェイシング文様」、ドニュエル窯の「菊花モザイク」、ダゴティ窯の「ビスク」、フイエ窯の「連花・花綱」など、パリ窯業群の底知れぬ実力の頂点を示す世界最高の製造技術と並べても、シュルシェール窯の「トートイス・シェル・グラウンド(鼈甲地文)」はひときわ異彩を放ち、磁器加飾の最高峰と目されてよい。無論この窯が造形や人物画・風景画などに秀でていることは言うまでもない。

 本品は鮮やかで濃い緑地に、鍵の手に曲がったスクロールが白抜きでリザーヴされ、ロココ風の花綱が細やかに描かれている。金彩はユニークで、カップには睨み合うトカゲと鷺が、ソーサーには小鳥に忍び寄る蛇が、それぞれ対比的にあしらわれている。トカゲの皮目や鷺の羽毛、小鳥や蛇の目などは、ごく微細に一つ一つチェイシング(磨き金)で描き込まれ、そのほか薔薇やロココ風の植物スクロール文様などにも花びらの影や葉脈がチェイシングで付けられている。ソーサーには金彩で花籠が吊された図も描かれている。
 爬虫類と鳥類の組み合わせ(しばしば闘いの要素を含む)は、ヨーロッパの装飾文化としては珍しいモティーフではない。しかし第一ロココ装飾第二期(ルイ16世時代)の特徴である小花の花綱や花籠文といったデザインとは必ずしも相容れるものではないため、やはり19世紀初頭の食器にありがちな渾然たる様式を含んだ作品といえる。
 

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