セス・ペニントン
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1780〜90年 染付でHとPを組み合わせたモノグラムの窯印
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ティー・ボウル:H=44mm、D=84mm/ソーサー:D=134mm
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リヴァプールで磁器産業に携わったペニントン一族は、1760年代から1805年まで、親戚同士で平行して窯を経営していた。作風は総体的に粗雑の感は否めなく、中国製輸入磁器食器や、ウースター、カーフレイなどのコピー品が製品の主体で、しかもその出来は芳しくなかった。染付と朱赤の日常雑器的食器や、中国人図、染付青のプリント物などの作例が多く残されている。同じリヴァプールでも、優れたステアタイト磁器と美しい色絵で、ウースター窯に競合するとまで言われたリチャード・チャファーズ(1765年からフィリップ・クリスチャン)窯もあったので、ペニントン一族の窯で作られる磁器の品質の低さは、独自の路線と言わざるを得ない(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.44参照)。 ペニントン一族が経営した窯は、以下の三系統に分類できる。 1.ジェイムズ・ペニントン&Co. 1763〜68年(ブラウンロウ・ヒル工場) 1768〜73年(パーク・レイン工場) 2.ジョン・ペニントン 1769〜79年(カパラス・ヒル工場) 1779〜86年(フォリー・レイン工場) ジェーン・ペニントン 1786〜94年(フォリー・レイン工場) 3.セス・ペニントン&ジョン・パート 1778〜99年(ショウズ・ブロウ工場) ペニントン&エドムンドソン 1799〜1803年(ショウズ・ブロウ工場) ペニントン&エドワーズ 1803〜05年(ショウズ・ブロウ工場)ペニントン窯があったリヴァプールは国際貿易港であり、地元の窯が作った磁器作品は、主に北米向けに船積みされていった。またリヴァプールは輸入磁器の街であったことも重要である。リヴァプール港はロンドンと並んで中国茶(緑茶・紅茶)の二大輸入港であり、茶と共に東インド会社が運ぶ(対中国貿易は1834年まで東インド会社の独占である)中国磁器、なかでも茶道具は、リヴァプールの商人が扱う主要品目となっていた。インド茶(ダージリン、アッサム)やセイロン茶(ウヴァ、ディンブラ、ヌワラエリア、キャンディ)が全くなかった19世紀半ばまで、イギリス人は中国紅茶を中国磁器で飲んでいたのであり、紅茶と磁器製茶道具は姉妹商品として扱われていた。リヴァプールの商人達は、こうした中国茶と中国磁器の輸入と販売で潤ったのである。そしてこの街の商人は、紅茶とそれにかかわる磁器作品に対する鋭い眼力と商才を持っていた。本ホームページに掲載されている各窯業者の歴史を読めば、各社とも面白いようにリヴァプールの商人と提携し、株主に迎え、またロンドンと平行して、あるいはロンドンに先んじてリヴァプールに小売店舗を構えていることに気付くだろう。リヴァプールという土地はそれほどまでに優秀な茶葉商人と茶道具商人を抱え、太い販路に直結した街だったのである。そして、不景気になっても最後まで磁器が売れるのが、リヴァプールであった。 このような中国磁器、輸入茶道具で溢れていたリヴァプールで、粗悪だが安価な中国写しの焼き物を作り、輸入中国磁器の勢いを借りて一緒に売ってしまおうという商法があっても、まんざら不思議ではない。ペニントン一族が作った焼き物は、このような薄利多売の商環境を如実に反映した姿をしているというわけである。 本品は非常に薄くて軽い磁器で作られているが、釉薬のそこかしこにペッパー状の焼成跡がある。この薄汚らしい見た目は、逆にペニントン窯の作品であることを示すサインともなっている。全体に灰緑色がかった釉薬で、お世辞にも「白い」とは言いがたい。透光は淡い若草緑色である。 絵柄はエキゾティック・バードであるが、体は雉に似ているものの、頭には羽飾りが付いており、現実の孔雀に近い姿をしている。こうした絵柄はチェルシー窯やウースター窯、あるいはロンドンにあった絵付け専門工房の作品などによく見られる鳥絵を意識した配色・構図とみられる。 絵付けでは、細かい部分にだけプリントの下絵があり、そこに手描きで彩色を入れている。地面など大まかな部分や、ボウル裏面の小花絵などは、下絵なしの手描きで仕上げられている。 |