ナスト
1800〜10年 赤褐色のプリントで NAST の窯印
タス・リトロン:H=62mm、D=62mm/スクプ:D=125mm
 本品には様々な方向から見た薔薇の花がカップに七輪、ソーサーに八輪描かれ、蕾はカップとソーサーにそれぞれ三個ずつ描かれている。花の向きにも工夫が凝らされ、カップには横裏側からみた花が一輪、萼を見せる形で配置されている。また各花の開き加減にも異なる表現を試みている。透明感がある軽い色味の顔料には艶があり、薔薇絵はハイライトを活かして立体的に見せている。カップとソーサーで画風が異なるのは、この食器セットが複数の絵付け師の合作によって仕上げられたことを示している。
 金彩では金魚藻のような水草状のデザインが、曲線的にあしらわれている。線香花火の火玉が弾けるような細かい図柄の描写は、前傾作の小紋散らしとも共通するナスト窯の金彩装飾に見られる特徴の一つである。
 





ナスト
1800〜1810年 手書き金彩で‘nast’ の窯印
タス・リトロン:H=63mm、D=60mm/スクプ:D=128mm
 18世紀末に「パリの四大窯」と呼ばれたうちの一つ「ナスト」は、その設立や沿革に関する資料が乏しい。創業者はジャン・ネポミュセーヌ(ネポミュセーヌ・ジャン)・エルマン・ナストで、この人物は財運の星に恵まれており、窯の初動資金源は不明だが、晩年までに莫大な資産を形成したことがわかっている。
 ジャン・ナストについて、ジェフリー・ゴッデンは自著の中で「1780年頃パリ・ポパンクール通りの小さな工場を買い、次第に事業を拡大して、1783年にデ・ザマンディエ・ポパンクールに新工場を作った」と述べている。これはナスト窯の歴史の解明がいかに難しいかを示しており、わかっている範囲でゴッデン説を訂正しておく。
 ジャン・ナストは馬具職人の親方の息子として、1754年にオーストリアのラーデスブルクに生まれた。ジャンがフランスにやってきた1779年には、彼も父親同様に立派な馬具職人になっており、彼はヴェルサイユの馬具工房に入り、そこで働いたと見られる。
 しかしジャンの祖父は故郷ラーデスブルクで陶器工場を営んでおり、その影響で彼はヴァンサンヌにあったエクトル・セギン(セジャン)の硬質磁器工場に入った。ジャンは窯のディレクターだったピエール・ルメールの下で働いたが、ルメールは後にヴァンサンヌを出てパリのポパンクール通りに磁器工場を作った。そこでジャンはかつての上司ルメールとの人脈を生かし、大きな自己資金を投下して、1783年、このルメール窯の経営権を手に入れた。したがってルメールから工場を引き継いだ1783年が、第一期ナスト窯の始まりである。
 このポパンクール工場は1787年頃まで操業したと見られるが、1788年の確定的な資料がない。この年は工場の移転・拡大のために、磁器製造を一時休止していたと考えられる。ジャン・ナストは翌1789年に結婚するが、このときの婚姻証書には莫大な資産が記入されている。このことを裏付けるように、ナストは同1789年に、パリのデ・ザマンディエ・ポパンクールに新工場を建設した(第二期ナスト窯)。
 しかし第二期ナストでは、工場建設から三年程で赤字に転落し、フランス革命中の1792年以降は、三年間巨額の借金に苦しみながら経営を維持した。1810年にはジャン・ナスト自身の手によって「ア・ラ・モレット」というレリーフ技術を開発し、特許権を獲得した。これは金属器的で精密なくっきりとした削り込みのボーダー装飾に金彩などを施したもので、ナスト窯製品の工芸的価値を飛躍的に高める発明であった。
 同時に精度の高い造形や絵付けのために名職人達を集め、ナスト窯はフランス最高の硬質磁器メーカーとなった。フランス磁器の最高峰といえばセーヴル窯ということになろうが、ナストの絵付け・装飾技術はセーヴルと変わらないので(職人も同じ)、当時から今日まで、その名声をほしいままにしている。
 高品質の優れた磁器と豪華な装飾により、窯の経営は好転し、1812年までにかつてない資金を調達して、経済的に完全復活したジャン・ナストは、翌1813年に二人の息子、アンリ(1790年生)とフランソワ(1792年生)を窯の経営に迎えた。
 その後ジャン・ナストは1817年に亡くなり、窯は「ナスト・ブラザーズ」として兄弟の時代となった。この時期のナスト窯は、フランスの内国博覧会に相次いで参加し、1819年から1834年までに四回の金賞に輝いた。品質は依然として最高クラスで、父親の理想を維持していた。ただ兄弟の提携は1731年に解消し、以後は長男アンリが単独のオーナーとなった。この頃から窯の経営が徐々に悪化し、1835年にアンリも窯業から撤退し、ナストは閉窯した。
 それから十六年後の1851年に、アンリ・ナストはロンドン大万博に現れた。1835年の閉窯の事実の他には、1851年の万博の参加記録以外にナストの事跡は不明である。このロンドン大万博出展について、パリ磁器研究の第一人者であるレジーヌ・ド・プリンヴァル・ド・ギユボンは「ナスト・ブラザーズは知名度と品質の高さにより、工場がもはや操業していないにも拘らず、(旧製品を)展示するように依頼されて出展した」と述べている。これに対してジェフリー・ゴッデンは「アンリ・ナストは閉窯後も少なくとも1851年まで、旧ナスト窯の既存在庫白磁への絵付け師としての仕事を続けており、ロンドンで展示できる(受注用の)見本品を持っていた」と反論している。この解釈について、筆者はゴッデン説に賛成する。なぜならばロンドン万博の参加申込書には「パリ、デ・ヴォジェ広場二十二番地」という、住居ではなくナストの新しい会社(工房)とみられる所在地が書かれているからである。

 これはナスト窯全盛期より少し前の時代の作品である。
 本品には地色一色に金彩、モノクロームでギリシア・ローマ風人物画という、ナポレオン好みのアンピール(エンパイア)様式に則った装飾が施されている。ナストの顔料は主にニコラ・ヴォーケランが開発したもので、地色の多くはマット(艶なし)だとされるが、この作品に使われた薄いピンク地にも艶がない。この地色は精密な白抜きで人物を型取り、首や顎の濃淡から髪の毛や指先まで微細に表現された女性像が描かれている。カップでは竪琴、ソーサーでは盆を携えている。
 ボーダー部には金彩でコーンとスクロール文様があしらわれている。このフランス風の装飾は、アンピール様式をコピーしたマイセン窯(「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.68参照)や、本ホームページのスウォンジー窯のページに、類似したデザインが描かれたカップ&ソーサーが掲載されている。ダイヤ型のメイン・パネルの周囲には、実が三つ付いた笹のような地文様が描かれている。
 カップはやや細身で、ハンドルの形状は 18世紀のセーヴル窯の模倣になっている。
 

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