マイルズ・メイソン
1805〜10年
ティー・カップ:H=56mm、D=81mm/ソーサー:D=136mm
 マイルズ・メイソンは1752年の生まれで、ロンドンを本拠として活躍する陶磁器商人だった。彼の店はロンドンのフェンチャーチ・ストリートにあり、輸入中国磁器を大量に買い付けては売り捌く、国際貿易商として財をなした。
 彼は資産を運用する目的から、1790年代にウルフ一族の窯業に出資し、ほぼ同時に二つの窯元の大株主になった。一つはリヴァプールのトーマス・ウルフの磁器窯、いま一つはレインデルフのジョージ・ウルフの陶器窯である。
 リヴァプールのトーマス・ウルフ窯は、ハイブリッド・ハードペースト(擬似硬質磁器)を焼いており、1794年まではジョン・ダヴェンポートがビジネス・パートナーだった。ダヴェンポートが独立して窯を開くことになったため、彼との提携を解消したウルフは、その二年後の1796年、新たにジョン・ルコックとマイルズ・メイソンを株主に迎えた。
 同じ頃、スタッフォードシャー州レインデルフでアーザンウエアを焼いていたジョージ・ウルフの窯にも資本参加したマイルズ・メイソンだが、窯業に携わること四年間の後、1800年六月には両窯の経営から一旦身を引いた。輸入中国磁器の販売業はその間も続けており、この商売からは1802年頃に引退したとみられる。
 ウルフ一族と一定の関係を維持していたマイルズ・メイソンは、1804年十月にレインデルフのジョージ・ウルフの陶器工場を引き継いだ。マイルズ・メイソンはこの工場で、トーマス・ウルフ窯と同様にハイブリッド・ハードペースト磁器を焼いた。しかし品質的にはチェンバレンズ・ウースターのハイブリッド・ハードペーストに似た成分組成をしていた。磁器製品は1805年以降に流通を開始したとみられる。マイルズ・メイソン窯はスタッフォードシャー窯業群に属し、「ヴィクトリア・ポタリー」と称した。
 初期のマイルズ・メイソン製品は、リヴァプール窯に似た中国式染付プリントや、ニューホールを模倣した小花絵などが多かった。
 ヴィクトリア・ポタリーでは1806年までの二年余りを操業しただけで、1807年にはフェントンに工場を移転して「ミネルヴァ・ワークス」と称した。1810年にハイブリッド・ハードペーストにかえてボーンチャイナを導入し、翌1811年には二番目の工場も開設して事業は繁栄した。
 1807年に新工場に移転して以降のマイルズ・メイソン製品は、より装飾性を増した美しいデザインがみられるようになった。様式的にはスポードのボーンチャイナやバー・フライト&バー、ウースター製品を模したものが中心となっていった。またパリ窯業群製品の形状を巧みに模したティーセットなども作られた。
 ところが、1813年に名高いアーザンウエア「メイソンズ・パテント・アイアンストーン・チャイナ」が完成すると、状況は一変する。マイルズ・メイソン窯では手強い競合相手がひしめくボーンチャイナの生産を推進して経営の荒波に巻き込まれてゆくよりも、この優れた最新の特許陶器を守る方が得策だと考えたのである。
 マイルズ・メイソンは同1813年に製磁事業から引退し、ボーンチャイナの製造は中止された。したがってマイルズ・メイソン窯での磁器製造は、わずか九年の短期間で終わったことになる。アーザンウエアの特許は、窯を引き継いだ三男のチャールズ・ジェームズ・メイソンの手に渡ったが、後にC.J.メイソン窯はボーンチャイナ製造を復活することになる。しかし父マイルズは陶器工場となった息子の会社の発展を見つつ、1822年四月に没した。

 本品は柔らかな筆致でカップには青い岩山、ソーサーには丘の上に立つ廃墟が描かれている。この絵が実際の風景に基づくものかどうかはわからないが、かなり崩壊が進んだ廃墟はスコットランド地方を描いた風景画に多いテーマである。
 色絵の周囲には金彩でヴァーミキュレイト(虫這い文様)が全体に施されており、風景画+ヴァーミキュレイト金彩という様式は、バー・フライト&バー、ウースターでデザインされた食器の模倣である。
 カップの形状はビュート・シェイプで、マイルズ・メイソン製品の特徴であるサムレスト(親指掛け)が突起状に造形されている。同一形状のティーカップ&ソーサーが「ヨーロッパ アンティークカップ銘鑑」p.52上に掲載されているので、ご参照いただきたい。
 

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