ヒルディッチ
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1845〜55年
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ティー・カップ:H=66mm、D=87mm/ソーサー:D=149mm
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ロココ風のCスクロールを繋いだ枠に花文様が一個描かれる額縁で白抜きされ、窓内には田舎風の館、橋や川、山や湖、城、カテドラル、スコットランド風の廃墟などが描かれている。ヒルディッチ窯では、こうした風景画を「クオリティー・パターン(上質のパターン)」と呼び、花絵など他の文様と区別していた。 ヒルディッチ窯の場合、風景の原画は絵付け師が独自にデザインして自身の作品製作用に所持していたため、極めて多彩な風景画のパターンが残されることになった。窯の末期である1850〜60年代に近づくにつれ、建物の描線が正確になるのがはっきりした特徴である。 本品には明るいベージュ色の地色が施されているが、ヒルディッチの前期風景画(1840年頃まで)では全て白地(白磁)になっていた。地色を着けた作品を初めて作ったのはパターン・ナンバー2095で、このとき用いられた色がベージュだった。このことからベージュ色はヒルディッチ窯を代表する地色となり、最も多くの作品がこの地色で製作された。本品のパターン・ナンバーは2172である。 ヒルディッチ窯には、他に緑色地と紺地(藍色地)を施した作品が多い。このうち紺地の作品の多くは北アメリカ向けの輸出品として作られた。アメリカでは1830〜50年代にかけて最も好まれ、かつ高級品とされたのが、紺地に花絵、鳥絵、風景図などのテーブルウエアで、これらは「ダービー・タイプの磁器」と総称されていた。 また初期〜前期にデザインされた風景画には人物はほとんど描かれておらず、後期になるとピクチャレスク絵画の影響を受けて、小さな人物が付加されるようになった。本品の風景画にも佇む人物が一人二人描かれている。 シェイプは1850年前後に流行した、プレーンなハンドルにアウター・スパーが二個付いた、緩やかなフルート形状のカップである。 本品にはコーヒー・カップが添っており、トリオのセットになっている。 |
ヒルディッチ
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1835〜40年
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ティー・カップ:H=55mm、D=104mm/ソーサー:D=150mm
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複雑な造形のカップ&ソーサーで、口縁にしっかりした金彩で描かれている文様部分は立体に作られている。カップとソーサーの見込みには、メインの花一輪を強調する描き方の花絵があり、若草色の植物文様で枠を作った中に、それぞれ異なる小花が描かれている。 ハンドルは三つの突起(スパー)を持つデザインで、ラスティック・ビーン・ハンドル(空豆型)のリングの一部が退化した名残の突起が内側に残されている形状である。口縁が開き、小さなペディスタルが付いたカップとともに、豆型ハンドルの採用も1835〜45年代のカップ&ソーサーを特徴づける意匠である。 本品にはコーヒー・カップが添っており、トリオのセットになっている。 「アンティーク・カップ&ソウサー」p.72に、本品と同一形状のカップ&ソーサーが掲載してあるので、ご参照いただきたい。 |
ヒルディッチ
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1825〜30年
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ティー・カップ:H=48mm、D=88mm/ソーサー:D=145mm
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ここで筆者は、病苦と死の影に付き纏われた、ヒルディッチ一族の悲しい物語を書かなければならない。 ウィリアム・ヒルディッチは、スタッフォードシャーのイプストーンで、1755年に生まれた。ジョン・アダムズの陶器工場に徒弟として入った後、18世紀末には独立して自分の工場をレインデルフに建設し、そこで陶器を焼き始めた。1800年代になると、地元のジョージ・マーティンと提携して事業は繁栄し、1811年頃からはボーンチャイナ製造を始めた。しかし九年後の1820年以降重度の心臓病に罹り、1831年に亡くなるまでの十一年間はほとんど寝たきり状態となってしまった。ウィリアムは熱心なメソジスト教徒で、病の床に着くまでは活発に宗教活動を行い、死後遺産の大部分は教会に寄付された。 父の発病後、会社はウィリアム(父と同名)とジョンの兄弟に引き継がれ、ジョージ・マーティンは1822年まで出資を続けて兄弟を支えた。ジョージ・マーティンには子孫がなく、遺言によって巨額の遺産はやはり教会に寄付された。教会に帰依した善人として、地元では今も彼の名前は忘れられていない。 ところで、息子のウィリアムは父のヒルディッチ窯を引き継ぐ以前、「当時筆頭級の磁器工場」で二十年間働き、最後は親方にまでなった人物である。しかしこの「磁器工場」がどこだったのかについては、何の記録もなく、今日なお解明されていない。 またヒルディッチには極めて安直で貧相な普及廉価品と、それと対極にあるコールポート窯の風景画を上回る奥行き感と精密さを持った地色金彩の風景作品などがあり、その落差の激しさから、それぞれ別のヒルディッチなのでは?との論争もあった。実は父のウィリアムがまだ元気で、事業も順調だった頃から、レインエンドには二か所のヒルディッチ工場が建っていたことが判っている。今日では資料がなく、その名称や場所は不明だが、最近の研究ではヒルディッチ&サン(父・兄)とヒルディッチ(弟)&マーティン(後にヒルディッチ&ホプウッド)というのがそれぞれの工場の経営形態で、弟ジョンはジョージ・マーティンと特に親しく、この二人で別の「ヒルディッチ」を製造していたのではないか、という説が出ている。これならばあまりの品質の差異に対する説明も付くし、そもそもジョンが父と兄の「ヒルディッチ」事業に参画していたかどうかの確たる証拠もない、という段階まで論が進んできている。 1835年に兄のウィリアムが亡くなるとすぐに、その遺言執行人の一人であったウィリアム・ホプウッドが弟ジョンの会社に参入した。兄ウィリアムは少なくとも十人の子をなしたが、生き残ったのは五人の女子のみで、男子五人は幼少期に全員亡くなり、跡継ぎはいなかった。したがって後事は遺言執行人に託されたのである。ホプウッドは以前から兄ウィリアムの高級磁器事業に深く関わっており、そのため1835年以降のヒルディッチ&ホプウッドの磁器は、チェンバレン、ロッキンガムの二大王室御用達窯に匹敵する品質、との評価を獲得することができた。 1843年に弟ジョンが亡くなると、会社は未亡人メアリー・アンに引き継がれ、女性オーナーの誕生となった。ウィリアム・ホプウッドは1858年まで生き、亡くなるまで十五年間継続して経営を支え、故人を裏切ることはなかった。 実は弟ジョンにもなかなか跡継ぎができなかった。彼は最初の夫人との間に男子四人と女子三人をもうけたが、男子四人はいずれも早世し、女子二人も幼少期に失い、成人したのは娘アン一人だけだった。後妻のメアリー・アンは二人の男子を授かり、長男ウィリアムはヒルディッチ社の後継者として育ち、本人も窯業経験を積み、いよいよ経営に参加しようとした矢先、二十一歳の誕生日を迎えてすぐに急死してしまっていた。 ジョンが死んだ1843年は、下の男の子ジョン(父と同名)はまだ七歳だったため、母メアリー・アンが会社を引き継ぐより他に方策がなかったのである。ヒルディッチ兄弟は合計十九人もの子供を産みながら、生き残った男子はジョン・ジュニアただ一人だったということになる。彼は成人の後、一時ラスターウエアやマジョリカ(マヨルカ)ウエアを焼く事業を行ったが、ヒルディッチ社を引き継ぐことはなく、最後は鉄道倉庫の社員となり、1889年に五十三歳で亡くなった。 ヒルディッチ社は1867年までボーンチャイナと陶器を焼き、1868年にメソジスト教徒仲間でヒルディッチ家と親しく交流があった人々へ売却されて、デール、ペイジ&グッドウィンという陶器会社になった。1877年には手狭になったレインデルフの旧工場を廃して移転した。したがって同社の磁器製造は1867年が最後であり、窯業界から「ヒルディッチ」の名跡も絶えてしまった。 ウィリアムとジョンにはもう一人、ジョゼフという兄弟がいたが、彼は三人兄弟の中で最も早く(父よりも早く)、1828年に喘息で若死にしている。病状が悪化して呼吸困難に陥ってから亡くなるまで六週間、椅子に座ったまま横になることもできずに、酸素を求めて延々と苦しみ続けたという。彼も生前から教会に巨額の寄付を行い、もちろん遺産も教会に委ねられた。 製品の売り上げや品質の良し悪しよりも、後継者が出なかったという人的な部分での悩みを抱え続けて消えていったヒルディッチ窯は、亡くなった一族の面々が教会への寄付などを通じて尊敬を受け、未亡人に手を差しのべる支援者が多くあり、スタッフォードシャー窯業群(スポードなど)からの優遇もあって、家庭的には様々な不幸に襲われたが、社会的には立派な足跡を残したと評価できる。しかしながら多くの幼児や前途有為な若者を次々に失い、更には一族唯一の生き残りの男子が、先祖以来の事業を継承しなかったことなどを考えると、果たしてこれが一族を挙げて熱烈に信仰した彼らの神の意志だったのか、また健康長寿や事業繁栄ばかりが人間の幸福ではないにせよ、この一族の生き様から我々が見出せる未来への希望があるのか、ヒルディッチ社の窯と人が残したものの儚さには鬱々たる思いがする。 ここではヒルディッチ&サンズ(1822〜1835)の時代に作られたカップ&ソーサーを紹介する。 緩い縦縞のフルート造形のカップは口縁が開き、1825〜1830年代のカップに典型的な形状様式をとる。通常このタイプのカップには「オールド・イングリッシュ・ハンドル」が取り付けられるが、ここではその変形が採用されている。 カップとソーサーそれぞれに、力強いタッチの花絵が鮮やかに描かれており、少し小振りな製品なのだが、存在感がある。 白磁は上質のボーンチャイナである。 ヒルディッチ社の作品は「アンティーク・カップ&ソウサー」p.72にも掲載してあるので、ご参照いただきたい。 |
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