フュルステンベルク
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1770〜1790年 染付手書きで‘F’の窯印と「10」の記番
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コーヒー・キャン:H=61mm、D=64mm/ソーサー:D=128mm
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1747年、ブラウンシュヴァイク公カール一世は、1744年からマリア・テレジアの御用窯となったウィーン窯の動向(職人の流出)に触発され、自領のヴォルフェンビュッテルの南西にあるフュルステンベルク城に窯を建設した。この城は、ドナウ・エッシンゲン市にある同名の「フュルステンベルク城(1723年創建)」とは違うので、区別が必要である。 当初窯の技術を指導したのはヨハン・クリストフ・グラザーであったが、この人物の知識は不十分で、真正硬質白磁の焼成には至らなかった。こうしてフュルステンベルクで無為に三年が過ぎる間に、同じドイツ圏のヘクスト窯でもマイセン窯、シャンティーイ窯を渡り歩いた柿右衛門写しの名高い絵付け師、アダム・フリードリヒ・フォン・レーヴェンフィンクの指導で製磁事業に取り組んでいたが、やはり真正硬質磁器が焼けずに高品質なファイアンスを作っていた。しかし1750年にウィーン窯出身のヨーゼフ・ヤーコプ・リングラー(1730〜1804)とヨハン・キリアン・ペンクグラッフ(1708〜1753)が招かれると、ヘクスト窯ではヨーロッパ第三番目の真正硬質磁器焼成に成功した。 ヨハン・ペンクグラッフは、帝立となったウィーン窯を出て1747年にキューネルスベルクのファイアンス窯に行き、翌1748年にバイエルン選帝侯国のミュンヘンに移動し、1750年にヘクスト窯にやってきた。ペンクグラッフはヘクスト到着から半年もしないうちに真正硬質磁器焼成に成功したが、これは同僚のリングラーの功績による部分も大きい。 リングラーはヘクスト窯に硬質磁器製法を伝えると、すぐにフランスのストラスブール窯に招かれてドイツ圏を去ったが、ペンクグラッフはそのままヘクストに留った。しかしヘクスト窯の経営者であるヨハン・クリストフ・ゲルツとペンクグラッフの間には、その後軋轢が生じた。ベルリンで硬質磁器窯を営んでいたウィルヘルム・カスパー・ウェゲリーと1752年に面会したペンクグラッフが、磁器窯の設計モデルや胎土の配分秘法、カオリン鉱脈の位置などをウェゲリーに漏洩したというのが原因である。ペンクグラッフとウェゲリーの交渉は不調に終り、結局彼はベルリン窯には行かなかったが、ゲルツはペンクグラッフを逮捕・監禁し、地元マインツの選帝侯大司教がペンクグラッフの保釈に介入するまで、彼の行動の自由を奪った。当時真正硬質磁器は金と重量等価交換されるほどの貴重品であり、製磁秘法奥義修得者が他窯に移動することを安易に容認できない時代だったのである。 丁度その頃、ウィーン窯時代の同僚から手紙を受け取ったペンクグラッフは、ブラウンシュヴァイク公カール一世が、製磁秘法奥義修得者を破格の報酬でフュルステンベルク窯に招こうとしているという情報を知り、その誘いを受けた。そこで1753年、ペンクグラッフはゲルツの目を盗んでヘクストを出発し、ヴォルフェンビュッテルのフュルステンベルク窯を目指した。この時ペンクグラッフは、ヘクスト窯最高の色絵付け師ヨハネス・ツェシンガー(全ての作品にサインもしくはイニシアル記入を許されていた。ペンクグラッフの女婿)、初期フュルステンベルク窯最大の主任造形師となったシモン・ファイルナー(ニンフェンブルク窯に共通するアイディアでイタリアン・コメディー像などを作った)をはじめ、他にもヘクスト窯の有力な親方職人を複数引き連れて、フュルステンベルクに到着した。 主要スタッフの大量造反に怒ったゲルツは、硬質磁器焼成秘法の伝播を妨害するため、刺客を使って秘密裡にペンクグラッフを毒殺したとみられる。ペンクグラッフは到着から一週間で亡くなったという説があるが、これはフュルステンベルクで一週間ほど元気で暮らした時点で毒を盛られて倒れたものと考えられる。フュルステンベルク窯到着は1753年5月6日、ペンクグラッフ没が同年6月7日という届け出がされている(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.231〜232参照)。 ペンクグラッフの不慮の死にも拘らず、ツェシンガーらの努力の結果、1753年11月にフュルステンベルク窯は真正硬質磁器焼成に成功した。ヘクスト生まれの青年ツェシンガーは、義父ペンクグラッフに従って故郷を捨て、以後は終生フュルステンベルク窯にあって、この地に骨を埋めた。 その後1762年に陶工としては珍しく国立絵画アカデミー正会員となったツェシンガーの名声と人格を慕い、フュルステンベルク窯には優れた色絵付け師が多く集まり、風景画を中心にドイツ周辺の諸窯に大きな影響を及ぼした。そして入窯を希望する絵付け師や徒弟達の数の多さと、ツェシンガー工房のあまりの隆盛ぶりに、窯では1774年にブラウンシュヴァイクの街に絵付け部門だけを独立させるほどであった。このブラウンシュヴァイク工房は、その後約五十年ほど使用された。ヴォルフェンビュッテルは中世北ドイツの面影をとどめた、お伽話のように美しく長閑な街である。それに比してブラウンシュヴァイクは、政治・経済の中心的役割を担う先端の大都市であった。一方フュルステンベルク城は、渓谷の川に臨む峻険な崖の上に建っている。周囲には何もないため、職人達は城に近いヴォルフェンビュッテルに生活の基盤を置き、家族を住まわせ、そこを足掛かりとして窯に通った。馬車に揺られればそう遠くない距離である。ブラウンシュヴァイクはヴォルフェンビュッテルの北にあり、いわば隣町である。 このように絵付け部門が主体だったフュルステンベルク窯の画風は、ウィーン窯のそれと相通じるものがあるが、顔料が濃く暗めのトーンであるため、独特の重厚感がある。窯の全盛期は1770〜90年頃で、ヨハン・エルンスト・コールがディレクターとなって窯の芸術と経営を指導した。それより以前の1753〜70年頃にかけての作品は、今日ではほとんど残っていない。1790年代以降は、フランス革命とナポレオン戦争の影響で窯の経営は行き詰まり、世の中の流行もアンピール(エンパイア)様式やネオ・クラシック様式が好まれたため、フュルステンベルク窯でも作風の変更を余儀なくされた。そのためフランスからヴィクトル・ルイ・ジェルヴェロをディレクターとして招き、窯の仏傾化を指導させた。 ここではフュルステンベルク窯全盛期に作られたシンプルなコーヒー・キャンを紹介する。標準的な円筒形のキャン・シェイプに、やはり標準的なソーサーのセットで、ハンドルは、マイセン、ウィーン、ヘクストなど、先達の磁器窯のデザインに倣ったドイツ風のスクエアハンドルである。白磁は僅かに青灰味を帯びた滑らかな釉薬で覆われ、磁胎にはあまり透光性がない。 ギリシア神話をモティーフにした絵付けで、ソーサーには物憂げに肘をつき、柱に寄り掛かって俯く美の女神アフロディテが左側に描かれ、右側にはそのアフロディテを糾弾する戦いの女神アテナが描かれている。このアテナはヘルメットを被っていないが、持ち物の盾がその属性を示している。 カップには、弓を取り上げられ、箙だけを背負ったエロス(クピドー)が、弓を奪い返そうとして両手を高く伸ばしながら走る有様が描かれている。髪が後ろに靡き、動きのスピード感が表現されている そもそもこのようなデサインは、食卓の話題作りの目的で企画されたものであり、食器上に描かれた絵のテーマをめぐって、客同士の楽しい会話が弾むことを主眼としていた。思うにアテナが「弓矢というものは戦争の道具であって、それを恋愛の手段とすることはけしからん、おまえの悪戯息子であるエロスの素行管理をしっかりやれ」とアフロディテに詰め寄る場面と解釈すれば、二つの絵を結んだ面白いストーリーが構築できる。 フュルステンベルク窯の作品は「アンティーク・カップ&ソウサー」p.26、27にも掲載してあるので、ご参照いただきたい。 |
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