ジェミニアーノ・コッツィ
1770〜1780年 赤色で錨の窯印
コーヒー・カップ:H=58mm、D=66mm/ソーサー:D=119mm
 1757年、プロイセンの王フリードリヒ二世によって仕掛けられた七年戦争により、マイセン市のアルブレヒツブルク城内にあったザクセン王立磁器工場も戦禍に巻き込まれ、多くの職人達が工場を去った。その中にナタニエル・フリードリヒ・ヘヴェルケとその妻マーリア・ドロテーアがいた。ヘヴェルケ夫妻はザクセンを離れて北イタリアの自治都市ヴェネーツィアに向かい、その地で独自に磁器窯を建設すべく活動した。
 並々ならぬ努力が実り、1758年、ヘヴェルケはヴェネーツィアにおける向こう二十年間にわたっての磁器窯経営に関する許可を取り付けた。ヘヴェルケ窯では灰色がかった磁質で人物やプットーなどの磁器人形を作ったり、風景画を描いた食器セットが製作されていた。
 七年戦争が終結をみた1763年、ヘヴェルケはヴェネーツィアの名士ジェミニアーノ・コッツィと資本提携し、彼を共同経営者として迎えたが、これは磁器製造に関わる許認可権益の再申請や債務の書き換えなどの法的手続きをスムーズに処理する(もしくは手続きをしない)ために行った、コッツィへの工場と製磁ライセンスの事実上の売却である。ヘヴェルケは再びマイセン窯での職に就く目的でザクセンへと戻るため、コッツィと提携して間もなく同1763年中に自己資本を引き上げ、ヴェネーツィアを去った。
 コッツィは翌1764年、サン・ジョッベ地区に新工場を設立し、1765年にヴェネーツィア市議会の支援を取り付けた上で、自窯の製品を供給し始めた。コッツィ窯の磁土はヴィチェンツァ産だったが、この白い粘土層の位置を教えたのはレ・ノーヴェ窯から逃亡してきた地質学者のアルデュイーニだった。ヴェネーツィアの議会は外国からの磁器輸入を禁じていたため、コッツィ窯の商売は独占状態に近く、操業開始から僅か十六ヶ月の総売上高は16000ダカット(ドゥカート)にも及んだ。
 コッツィ窯の磁質は軟質磁器に分類されてはいるが、実際にはカオリンを含み、硬質磁器とガラスの中間的なものとされ「ハイブリッド・ソフト・ペースト」と呼ばれる。釉薬はドッチア窯よりも青味が少ない灰色で、色味は明るいが決して白色ではない。
 コッツィ窯といえば日本磁器の特徴に似せた「アド・ウーソ・デル・ジアッポーネ」という東洋風の絵付けが知られ、またマイセン窯をはじめとするヨーロッパ各窯のマナーに従った西洋風の作品も残されている。窯の製品は18世紀の有力他窯と比べてもひけをとらない一流の造型と装飾で、安手の廉価な量産品はほとんどなく、いずれも芸術的水準を保った仕上がりが施されている。
 コッツィ窯のアーティストは、ヴェッツィ陶磁器工場(ヴェネーツィア)でも腕を振るった絵付け師のルドヴィーコ・オルトラーニ父子をはじめ、造型師のセバスティアン・ラッザーリ、轆轤師のフランチェスコ・チェチェット父子らがいる。
 サン・ジョッベ工場は1812年まで経営された後、誰にも引き継がれることなくコッツィ窯は廃絶した。

 本品は灰色の磁質で、透過光は僅かに薄緑色がかっている。弾くと澄んだ金属音を発する。カップの外側には成型時に付いた細かい轆轤目がはっきりと残されている。
 ヨーロッパ風の花綱文様が丁寧に描かれ、花綱の中央には薔薇と菊、余白部分にはオレンジ色の小花が配置されている。口縁には連続するCをモティーフにしたボーダーが朱赤色で描かれている。
 ハンドルは内外にスパー(突起)を付けた形で、スパーの立体感を強めるために筋状の彫り込みが施されている
 

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