ロイヤル・コペンハーゲン
1937年 商標登録された通常のロイヤル・コペンハーゲン社の窯印
コーヒー・カップ:H=54mm、D=59mm/ソーサー:D=106mm
 金彩で太いバンドが施され、イタリア風の花の連続文様が描かれている。これは若干黒ずんだ描線で、顔料が剥げ落ちてしまったように見えるが、金彩をマット状に仕上げる特殊な酸性エナメルを用いて花を描くことにより、輝きが異なる金彩の表面を作る技法で、この顔料と仕上げ法は、今日の一般的な金彩絵付けにも適用されている。したがって、かすれた風情のこの絵付けこそが、完成されたスタイルということになる。





ロイヤル・コペンハーゲン
1897〜1923年
コーヒー・カップ:H=62mm、D=62mm/ソーサー:D=127mm
 ロイヤル・コペンハーゲン社は、18世紀から現代までの継続性が認められるデンマークの窯業者である。今回は磁器精製を果たす前後の経緯を簡単にまとめておく。

コペンハーゲンでの焼成実験と窯の設立年
 ドレスデンでガラス製造工場を営んでいたエリアス・ファーターは、18世紀前半当時には極めて高価な貴重品であった鏡の製造・販売で財をなし、その資金を元手に1729年、バイエルン地方のミュンヘンで真正硬質磁器を製造しようとした。もしこの試みが成功していれば、ヘクスト窯(1746年創立、1750年硬質磁器焼成)を抜いてヨーロッパ第三番目の磁器窯になるところであったが、事業は失敗した。彼はミュンヘンを発って1731年にコペンハーゲンに到着し、この地で再び磁器製造を試みた。この事業も結局は失敗に終わったが、これがコペンハーゲンにおける最初の磁器製造実験となった。
 ちょうど同じ頃、マイセン窯出身の金彩師で、ヨーロッパ各地の窯場を訪れて回ったクリストフ・コンラート・フンガーは、スウェーデンのストックホルムでファイアンス陶器を焼いていたロールストランド窯に、1729年から滞在していた。1733年にはここを出て、イタリアのフィレンツェ近郊・ドッチアで、1735年のジノリ窯設立に関わった後、再び北欧圏に足を向け、1737年にコペンハーゲンの宮廷の客となった。フンガーは1741年にコペンハーゲンに窯を建設し、陶器で医療器具や製菓道具を作ったが、真正硬質磁器製品は焼かなかった。
 1754年にはコペンハーゲンで、マイセン窯の青色エナメルの絵付け師として知られたヨーハン・ゴットリープ・メールホルンと、造形師のヨーハン・クリスティアン・ルートヴィヒ・リュックが磁器焼成に挑戦した。リュックは流浪のアルカニスト(最終奥義修得者)の典型例とされるが、製磁成功者のリングラーとは違い、各地で次々と磁器焼成に成功したという人物ではない。
 リュックはもともと象牙彫刻師であったが、マイセン窯の主任造形師キルヒナーが解雇された後を受けて、1728年に同窯に入った。しかし造形師としての彼の彫刻の腕前は低かったようで、翌1729年にはマイセン窯を解雇されている。コペンハーゲンにやってくる直前には、1752年に帝立ウィーン窯の第一主任造形師という最高の役職を得たが、やはりここも短期のうちに解雇されて同年中にフュルステンベルク窯に入り、その後コペンハーゲンに移動した。
 リュックは1754年にコペンハーゲンでの製磁事業に失敗すると、さらに各地を流転の末、後にイギリスへ渡る。しかし1755年、石切り職人の親方であったニールス・ビルヒが、ボーンホルム島でカオリンの大鉱脈を発見したことにより、コペンハーゲンにおける磁器焼成事業が可能となり、工場はコペンハーゲンに居残った前述のメールホルンが経営することになった。同1755年に株式会社を設立し、デンマーク王室が工場の筆頭株主となった。この出来事があった1755年を、現代まで続くロイヤル・コペンハーゲン社の設立年とする。

コペンハーゲン窯の指導者
 メールホルンはヤーコプ・フォートリンクのファイアンス工場と合併して製品の充実をはかった。フォートリンクの没後にはメールホルンも経営から引退し、1761年から会社はシャンティーイ窯の高名な造形師だったルイ・フルニエの手に委ねられた。フルニエはデンマーク出身の職人やアーティストを多数登用したが、彼が指導した窯の作風は完全にフランス趣味であり、またシャンティーイ窯やヴァンサンヌ窯式のフリット軟質磁器だけしか焼かなかった。
 1766年にクリスティアン七世が即位すると、フルニエはフランスに帰ってしまったので、窯の経営はフランツ・ハインリヒ・ミュラー(1732〜1820)が担当することになった。ミュラーはコペンハーゲンで薬剤師の徒弟となり、後に独学で化学、鉱物学、冶金学、植物学を修得した才人である。1760〜67の間は鉱物学や冶金学の知識により、国立コペンハーゲン銀行で主席試金分析官の要職にあり、こうした才能を買われてコペンハーゲン窯のディレクターとなった。
 ミュラーは真正硬質磁器が焼成できない現実を打破するために、偽名の旅券と身分証を作ってドイツ圏をはじめとする大陸中を遍歴し、各地の王立窯や民窯に潜入し、製磁技術を盗もうとした。彼は薬学者や植物学者になりすましたり、鍛冶屋や山師、鉱山技師などに変装したりして、情報収集を行ったものとみられる。苦節三年の流浪を経て、ようやくミュラーはコペンハーゲンに戻り、ディレクターである彼自らが身命を賭して持ち帰った製磁の秘法により、1773年、コペンハーゲン窯で初の真正硬質磁器焼成が成功した。
 1776年にはフュルステンベルク窯で独立系造形師として破格の待遇を受けていたアントン・カール・ルプラウを招いて、主任造形師とした。ルプラウは亡くなる1795年までコペンハーゲン窯で造形の指導を行った。また1768年(1776年説もあり)にはニュルンベルクのファイアンス絵付け師一族として名高いバイエル家から、ヨーハン・クリストフ・バイエル(1738〜1812)が招かれた。このバイエルが1790年代に描いたのが、デンマークの自生植物図鑑を磁器上の絵付けとして写し取った「フローラ・ダニカ」のシリーズである。植物学に関するミュラーの深い見識と、バイエルの技量が融合して成立したこの食器セットは、同窯の花絵モティーフの典型作として、今日までデザインが受け継がれている。
 株式会社は1779年に国有となり、「王立デンマーク磁器工場」と名乗るようになった。翌1780年にはコペンハーゲン市内に小売り販売所を設けた。
 18世紀のうちは王室の庇護を受けて窯は繁栄したが、1801年に博学才鋭のミュラーが功労年金を受けて引退したことと、折からのナポレオン戦争の影響により、窯の経営は急速に悪化し、生産量は激減した。窯では1820年代まで、質の悪い日常雑器のみの製造が二十年余りも続く、冬の時代に入った。

 さて本品は、万博と国際化の時代を経験したロイヤル・コペンハーゲン社が、再び勢いを盛り返した19世紀末から20世紀初頭にかけての時期に製造された。施釉白磁に金彩のみの仕上げで色絵付けはないが、磁胎全体に穴が開けられ、そこに透明な釉薬を充填する「ホタル焼き」の技法で装飾されている。
 「ホタル焼き」の源流は中国の磁器製品にある。量産品の茶道具の装飾に用いられた技法で、米の粒を胎土に練り込んで整形した後に素焼きすると、米は窯の熱で焼き飛び、あとには米粒状の長楕円形の穴が残る。これに釉薬をかけて張力によって穴を塞ぎ、本焼成すると、中の飲み物の色が透けて見える独特の風情を持った茶道具が出来上がる。釉薬が詰まった半透明の穴を螢の光になぞらえて、わが国では「ホタル焼き」と呼ばれており、中国では「玲瓏」と書かれる。現代では米粒を使うことはなくなったが、今なお中国製の「ホタル焼き」食器の多くには、伝統的に長楕円形の穴が開けられている。
 本品にはこうした東洋的装飾が施されているが、これは中国製品を模倣したのではなく、同時期のセーヴル窯製品をコピーしたものである。セーヴル窯では19世紀後半に中国磁器の写しや、その技術を応用した作品を集中して製造しており、「ホタル焼き」の茶道具も作られた。長楕円形の穴で花文様などが表現されている作品が多い。本品の穴は正円形で、細かい仕上がりになっている。各穴の周囲はロゼット状のエンボスで華やかに飾られ、またカップ基部とソーサーの井戸周りには、エンボスで三つ葉の連続文様が取り巻いている。
 またカップの形状も同時期のセーヴル窯で作られていたもののコピーで、ハンドルの繊細な隆起部分までそっくりに真似されている。同型のセーヴル窯の作品が「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.211上に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 結論としてこの作品は、装飾・形状ともにセーヴル窯製品の模倣作ということになる。

サイトに掲載の写真、文章等の無断転載・転用は堅くお断りします。
Copyright (C) 1999 mandarin d'argent, LTD. All rights reserved