シャンティーイ
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1755〜65年 青のエナメルで狩猟ホルンを模した窯印
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コーヒー・カップ:H=65mm、D=66mm
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シャンティーイ窯はコンデ親王ブルボン公ルイ・アンリ(1692~1740)によって、1720年代半ばに設立された磁器工場である。 「公爵殿下」という愛称で呼ばれたルイ・アンリ(ルイ四世アンリとも称する)は、国王ルイ十四世が母方の祖父、その公妾モンテスパン侯爵夫人が祖母という血筋で、七世コンデ親王として一族を率い、宮廷の重鎮として活躍した。オルレアン公フィリープの跡を襲ってフランスの宰相となり、位人臣を極めたが、増税などの財政政策が教会関係者や貴族達の不評を買って失脚し、1726年6月以降は自領であるシャンティーイ城で蟄居閉門に等しい生活を送ることを強いられた。 もともと東洋磁器のコレクターであったルイ・アンリは、政界を引退する以前からシャンティーイ城で磁器を製造してコレクションを充実させようと考えており、城内に窯を建設して作品の供給を始めた。しかし正確な開窯年は不明である。1730年には城に隣接する土地と建物を購入して工場を城外へ移転したとみられる。このシャンティーイ磁器工場で製磁現場を指導したのは、シケール・シルー(1700〜55)である。 シルーが若い頃の事跡は伝わっていないが、1722年10月〜1729年1月にかけてサン・クルー窯に在籍した記録があり、同窯で学んだ磁器焼成法の知識を買われて、1725年にはシャンティーイ窯に雇われている。サン・クルー窯における在籍年次とシャンティーイ窯での活動年が重なるが、シルーは1726年9月にパリで磁器上絵付け事業の登録も行っており、複数の事業記録が併行して残されていることは特段の不思議ではない。 ルイ・アンリが磁器製造の勅許をシルーに与えたのは、それから十年後の1735年10月5日である。ルイ・アンリは東洋の磁器作品の中でも、とりわけ柿右衛門様式を好んだため、勅許状では「日本磁器の完全なイミテーションを作るように」と命じている。そこで初期シャンティーイ窯では日本製や中国製の磁器製品を模倣した絵柄の作品を中心に据えた製造が試みられ、その忠実なコピー技術は同時期のマイセン窯をも凌ぐ水準であった。 シャンティーイ窯で模造された東洋磁器由来の絵柄には、柿右衛門写しの柴柵図、葡萄栗鼠文、双鶉文、双鶴文、菊に楓文などがあり、中国風のパゴダや唐子遊び図も描かれた。初期シャンティーイ窯のカラーパレットには黒がなく、絵柄の外線はマンガン紫(もしくはマンガン茶)か鉄赤で描かれている。その他には濃淡二色の緑、濃淡二色の青、薄いレモンイエローが顔料の中心で、金彩は1752年以降に初めて使用されている。 シャンティーイ窯の素磁に用いられた構成材料の配合秘法は、クロード・ウンベール・ゲランが開発した。ゲランはホワイトサンド75%にソーダ分25%を混ぜてフリット(白玉)を作り、これを粉砕したものを67%に泥白土33%を混ぜて磁胎とした。当初の素磁は大変白く、白磁としての品格は申し分なかった。これに不透明な錫釉をかけ、柔らかく滑らかな表面を得、釉薬の艶は光り輝いていた。1740年代には従来の錫釉に替えて、次第に鉛釉を用いるように変更されていったが、この頃から磁胎や釉薬がクリーム色がかってしまった。しかしこれらの黄色味を帯びた磁器ですらも優れた品格が保たれており、今日では色味の白、黄に拘らず、極めて評価が高い。 初期の原型には小品が多く、主に食器が作られたが、その中核はティー・ウエアである。また小物入れ(カシェ・ポット)や香炉も重要な製品であった。植物を象った碗やジャグ、爬虫類やドラゴンのハンドルなど、凝った造型も多い。やがてボトルやグラスのクーラー、大鉢、蓋付きのスープ・チュリーンとレードル、ポプリポットなどの重量を持つデザインも焼成できるようになった。初期のシャンティーイ窯は食器や生活用具のありとあらゆる物を焼いた、当時としては特異な窯で、通常の皿の造型だけで少なくとも29種類が知られているし、ステッキの頭に付ける握り部分や、柿右衛門写しの上等な尿瓶までをも作っている。 窯のディレクターとしてシケール・シルーは1725〜51年まで在職し、引退して四年後の1755年に没した。シルー時代の途中である1740年にルイ・アンリが亡くなり、コンデ親王家は当時四歳になるルイ・ジョセフが継承した。当主が幼少のため、叔父のシャロレ伯がルイ・ジョセフの後見役を務めている。 1751〜60年はシルーの後を受けたジャン・バティスト・スザンヌ・ブケ・ド・モンヴァリエが窯を指導し、この期間中の1751〜54年にはド・ルシエールが共同のディレクターだった。続いて1760~76年まではピエール・ペイラールが、1776〜79年まではルイ・フランソワ・グラヴァンがディレクターを務めた。ルイ・フランソワは父フランソワ・グラヴァンとともにサン・クルー窯に在職し、同窯の同僚としてシケール・シルーの知己を得て、親子でシャンティーイ窯にやってきた。父のフランソワはゲランの編み出したシャンティーイ窯のフリット秘法をヴァンサンヌ窯に伝える役割を果たした人物である。 1779〜81年まではルイ・フランソワ・グラヴァンの没後を受けて、彼の妻であるマドレーヌ・カロリン・ギャスパリーヌ・アダム・グラヴァンが窯の資産を相続した。彼女は1781年7月にアンドレ・ジョセフ・アンテオーム・ド・スルヴァルと彼の妻の名義にあてて窯の財産を売却した。アンテオーム・ド・スルヴァルは、1792年まで工場を保持した後、英国人の陶磁器事業家でパリにおける硬質磁器窯業を目論んだクリストファー・ポッターに、シャンティーイ窯の事業を64142リーヴルで譲り渡した。ポッターは1805年にブレシェに工場を売却し、以後の製品は硬質磁器となって20世紀まで事業は継続した。しかしフランス革命以後、19世紀、20世紀のシャンティーイ窯からは、もはや芸術的な作品が生まれることはなく、美術とは無縁の雑器が作られるだけとなった。適当でいい加減な植物風の絵付けを釉下染付彩色の青だけで描いた「シャンティーイの小花」と称する侘びしい食器なども残されているが、これらはシャンティーイ窯製であっても本来のシャンティーイ磁器ではない。ルイ・アンリの理想を体現した柿右衛門写しや、ロココ期の華やかな色絵を描いたフランス貴族のためのシャンティーイ軟質磁器は、18世紀のうちに滅亡した。シャンティーイ窯の全盛期は、開窯以来の伝統を受け継いだルイ・フランソワ・グラヴァンが製磁を指導していた時期までで、彼の妻が工場を手放した1781年以降に供給された製品の水準は、著しく低下してしまった。 シャンティーイ窯で活躍したアーティストは、多くの名前が記録されている。1734年にはデルフト出身の絵付け師アントワーヌ・グレミーが入窯し、造型師としてはピエール・ラノイ、アントワーヌ・フォシェのほか、マルゲリット・ドゥイエという女性も知られる。 1736年に親方造型師、原型彫刻師としてルーアン出身のルイ・グジョンが招かれて、窯は繁栄した。1737年の記録では、後にヴァンサンヌ窯に移って活躍する原型彫刻師アンリ・ブリドンなどを含めて十三人の職人が名を連ねている。この中に記名があるロベール・デュボワとジル・デュボワの兄弟については、特に言及する必要があろう。というのも翌1738年にシャンティーイ窯は、この兄弟の謀反に端を発する大きな事件に巻き込まれて紛糾し、職人は分裂して工場を去る事態に至るからだ。 磁器焼成や造型に詳しいとされたロベール・デュボワは、シルーの入窯と同1725年に雇われた。1731年にはロベールの弟であるジル・デュボワが参入した。ジルは初期シャンティーイ窯が誇る真っ白なフリット軟質磁器の秘法を盗み出したと政府に報告し、これに食指を伸ばした王室は、1738年、フランス東インド会社の重役ジャン・ルイ・アンリ・オルリー・ド・フルビー(オルリー・ド・ビニョリー蔵相の弟)にルイ十五世の勅許を与えて、マイセン様式を模倣した磁器製造を命令した。製磁工場はディアーブル城内に開設され、まもなくヴァンサンヌ城に移設された。同1738年にジル・デュボワは兄ロベールと共にシャンティーイ窯を去ってヴァンサンヌ窯に移ったが、このときアンリ・ブリドンも兄弟と行動を共にした。しかし兄弟の製磁知識は不十分で、王室が期待したような成果を達成することはなく、四年後の1741年には工場から放逐されてヴァンサンヌ窯の記録から兄弟の名前は消えてしまった。その後、兄のロベールが1753年にベルギーのトゥールネ(トゥルネイ)窯に雇われたという記録が残っている。 1740年から本格化した磁器焼成実験の立役者となったのが、フランソワ・グラヴァンである。サン・クルー窯でシケール・シルーと共に働いたグラヴァンは、デュボワ兄弟が盗み損ねたクロード・ウンベール・ゲランのシャンティーイ式フリット磁器の製法を、ヴァンサンヌ窯に改めて伝えたことにより、同窯では白くて美しいフリット軟質磁器が完成することになり、用済みとなったデュボワ兄弟は翌年にはお払い箱になったというわけである。 その他にシャンティーイ窯を去ってヴァンサンヌ=セーヴル窯に移籍した職人としては、原型彫刻師として名高いルイ・フルニエがいる。彼は1746年にヴァンサンヌ窯へ行き、その後デンマークに赴いてコペンハーゲン窯に招かれ、1761〜66年の間、同窯のディレクター を務めた。 1752〜56年には二十五人の職人が記録されている。1752年には名匠シャルル・ブトーが参入した。彼はヴァンサンヌ窯が引越・移転したセーヴル窯へ1756年に移籍して、優れた作品を残した。またルネヴィーユ(ルネヴィル)窯とストラスブール窯で花絵付けの名人として知られたエティエンヌ・ゴバンも入窯している。 シケール・シルーの引退後、1750年代以降のシャンティーイ窯の作風は、創業時以来続いた東洋磁器風の絵付けから、ヴァンサンヌ=セーヴル窯の趣味に影響されたロココ様式へと大きく転換していった。その一因となったのが、ヴァンサンヌ窯出身の職人を積極的に雇用したことである。 ヴァンサンヌ窯では1753年に株式会社形態による経営を開始し、王室はシャルル・アダムを代理人として25%の株式を占有し、窯への干渉を強めた。窯印に添えてアルファベット文字で製造年号を記入する管理が始まったのもこの年である。このような改革に伴い、1753年前後のヴァンサンヌ窯からは体制に反発する職人の流出が相次いだ。シャンティーイ窯の記録には、1753年にヴァンサンヌ窯から逃亡して捕らえられ、八ヶ月間バスティーユ監獄に下されたピエール・デュビソンの名前もある。同じく1753年にヴァンサンヌ窯から逃亡した罪で投獄されたジャン・マティアス・カイヤもシャンティーイ窯に雇われている。彼は自分で工夫した顔料の秘密と金彩技法をシャンティーイ窯に伝え、そのことは一層ヴァンサンヌ窯側の怒りを買ったようである。こうしてシャンティーイ窯では金彩の使用が実用化し、さらに鮮やかな黄色地、軽い黄緑地、明るい青地、強い緑地、大理石文様地などを描くようになり、作品の意匠はロココ風に傾いた。 本品はシケール・シルーの没後、シャンティーイ窯製品の装飾が柿右衛門様式や東洋風のデザインから脱した18世紀後半に製作されたコーヒー・カップで、珍種の鸚哥類もしくは鳩類とみられる鳥がモティーフとなっている。このような絵柄は博物図誌に基づいて動物の姿態を比較的正確に写し取っており、同様の企画はセーヴル窯の紅茶用、コーヒー用食器セットにも存在する。鳥や背景の構図と描き方はセーヴル窯への類似性を示しているため、職人の流入などで影響を受けたセーヴル窯様式のデザインといえる。鳥には外線がなく、極細の羽毛の線を繊細に描き込んで、ふわりとした風情で仕上げている。一方植物にはしっかりした外線があるが、どこをとっても書き殴った形跡はなく、端正で精密な描線が特徴である。ハンドルの左右には二種類の花を組み合わせた絵柄がアクセントとして描かれている。 素磁の色味は白い方で、釉薬はややクリーム色がかり、表面には細かい気泡がみられるが、全体の仕上がりは滑らかな輝きがあって優れている。磁胎に白色光を透過させると強い黄色味を帯びた緑色に変ずる。釉薬は高台の糸底まで全てを覆っている。ハンドルは緻密に造型されており、横部には溝が作られている。フリット軟質磁器特有の優雅なたたずまいは、低温で焼成される顔料の微妙な中間色の発色と沈み込むような釉表への結着がもたらす印象によるもので、真正硬質磁器に上絵付けを施すマイセン窯の作品とは明らかな違いを感じ取ることができる。 金彩の色合いと質感もヴァンサンヌ=セーヴル窯とよく似ており、口縁部にはドンティル・ボーダーと呼ばれるフリル文様が付けられている。 |