カーフレイ
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1791年頃
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ティー・ボウル:H=52mm、D=88mm/ソーサー:D=146mm
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カーフレイ窯は、ウースター窯出身のトーマス・ターナーの指導によって、1775年からステアタイト磁器の製造を開始したが、自社窯内では白磁製造と染付磁器製造しか行わず、色絵や金彩の仕上げは外部に発注していた。当初カーフレイ窯の仕上げ部門を担当したのは、フライト一族が経営する本家ウースター窯から独立したロバート・チェンバレンの絵付け工房で、チェンバレンがフライトと決裂してウースター窯から絵付け用白磁を買わなくなった1788年末から89年始にかけて以降、カーフレイ窯とチェンバレン工房の事業提携は深まっていった。 しかしチェンバレンズ・ウースターが自社で白磁を焼くようになると、カーフレイ窯は色絵付けの依頼先をコールポート窯に変更した。間もなくトーマス・ターナーは、「病気のため」という理由で、1799年にコールポート窯にカーフレイ工場を売却する。しかしターナーはその後も生きているし、この時本当に何かの病気であったのかは証拠がなく、カーフレイ窯売却の真相は不明である。 さて本品は、フライト・ウースター、チェンバレンズ・ウースター、カーフレイ、コールポートのいずれもに共通した造形がある「ひねりフルート(シャンク)」のティー・ボウル&ソーサーで、本品に描かれた風景画、矢車菊と月桂樹の環の縁飾り、金彩のリースと小花散らしは、チェンバレン工房による絵付けである。本品には1798年頃(この時期は主にコールポート窯が加飾を担当)の製造とする説があるが、筆者は製造年を1791年頃とし、それにともない加飾したのはチェンバレン工房という結論に変更した。 この絵柄に関しては、ほぼ共通のデザインが1793年以降のチェンバレンズ・ウースター製ティーセットにもある。そのため、この造型、この絵柄の作品を見付けた場合には、即座に「カーフレイだ」「チェンバレンだ」などと思いこまず、慎重に判断することが求められる。本品と同様の造型のオリジナルはカーフレイ窯で、チェンバレンズ・ウースター窯の作品はカーフレイ製品のコピーと認定されている。 風景画はティー・ボウル、ソーサーともにスコットランド風の古城が描かれている。いずれも湖水のほとりの峻険な岩場や小高い丘の上に建つ、既に廃墟と化しているらしき城の風景で、色数を抑えた画風になっている。 |
カーフレイ
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1785〜95年
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ティー・ボウル:H=55mm、D=84mm/ソーサー:D=134mm
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シュロップシャー州を流れるセヴァーン川から南西方向へ 1.5km余りの位置にあったカーフレイ窯は、1750年代前半に陶器を焼く工場として建設されたと考えられている。この工場のオーナーはアンブローズ・ガリモアである。ガリモアは1754年に、工場周辺の土地ならびに近郊の石炭鉱山に関して、向こう六十二年間にわたるリース契約を行っている。この石炭鉱山では、石炭鉱脈の上層からアーザンウエアに向く粘土が採掘できた。したがってカーフレイにおける窯業は、ガリモアによる1750年代後半の陶器事業が、その始まりとなる。 一方、後にカーフレイ窯で磁器を焼くことになるトーマス・ターナー(1749年生)は、1772年までウースターの街にいた。彼はここで磁器を販売していたという説と、ウースター窯の転写用銅版彫刻師だったとする説があり、今日では後者が定説になっている。 ターナーはウースター布教区の牧師の息子で、1760年代半ば(1764年か?)に徒弟としてウースター窯に入った。ここで彼の師匠になったのがロバート・ハンコック(1730〜1817)だといわれる。ハンコックは名高い転写用銅版彫刻師で、1747年頃にトランスファー・プリンティング(転写染付)の技術を独自に発明したと伝えられている。1775年、弟子のターナーがカーフレイで磁器窯業を発足させると、同年ハンコックはカーフレイを訪れ、彼はそのままカーフレイ窯に留まって作品を製作するようになった。そのほかにも有力な職人が、ウースター窯を捨ててターナーのもとに集まった。この逸話や、ロバート・チェンバレンへの支援・融資の件、さらには自社工場をコールポート窯に売却した後も、ディレクターとしてカーフレイ工場を任された件などから、トーマス・ターナーは人望厚い有徳の人だったと考えられている。 トーマス・ターナーは1772年までウースター窯に在籍し、ここで銅版彫刻の技術ばかりでなく、製磁に関する全ての知識を大変よく身につけるまでになった。そこで彼は同年、ウースター市からセヴァーン川を上流へ遡ること60km余りのカーフレイ窯に目をつけ、工場主のアンブローズ・ガリモアと資本提携した。ターナーはガリモアの娘を娶っているので、二人は女婿と舅の関係である。 ところで、カーフレイの地は非常に辺鄙で不便な場所にある。当時から現在までろくな舗装道路も運河もなく、セヴァーン川までも近いとは言えず、18世紀には事実上、輸送路を持たない工場だった。一から工場を建設するならば、当然カーフレイから4kmほど北にあるブローズレイの街を選んだであろう。しかしガリモア所有の旧施設を再建・拡張することの便利さと、何より至近に陶土と石炭の出る優良鉱脈があり、そのリース権をガリモアが保持していた点が魅力であった。ターナーとガリモアが提携するとすぐに、1772年から工場の整備が始まり、1775年には磁器焼成に成功した。ターナーはウースター窯で技術と知識を学んだため、カーフレイ窯で焼いたのは、ウースター窯と同様のステアタイト磁器だった。後にこのことがウースター窯との激しい争いを引き起こし、また現代の我々も「このステアタイト磁器はウースター製かカーフレイ製か?」という難問に苛まれる結果となった。 カーフレイの磁器作品は1776年には流通を開始した。会社は「ターナー&ガリモア」と称したが、工場は一般に「ロイヤル・サロピアン磁器工場」と呼ばれている。工場には三基の窯があったことが判っているが、19世紀に描かれたカーフレイ工場の版画を見ると、非常に大きな窯が二基あり、三階建てや二階建ての立派な建物が連なっている。左右の建物の壁面にはそれぞれに大時計が設置されており、同じ方向に向けてなぜいくつもの時計が必要だったのかは興味深い疑問である。 ターナーは自社の経営主眼を、ウースター窯製品と中国からの輸入磁器と競合することに定め、ウースター窯のコピー品や類似する図柄、中国磁器を真似した作品などを製造した。しかしカーフレイ窯を二流のウースター窯、亜流のコピーメーカーと考えるのは誤りである。ターナーがカーフレイ窯を始める以前にウースター窯に残した自作の絵柄は「ターナー・オリジナル」と認定され、これを1775年以降にウースター窯が焼いた場合は、逆にそちらがコピーとなる。またターナーがカーフレイ窯を設立して以降に現れた「フィッシャーマンズ・パターン」や「ブローズレイ・パターン」は、逆にウースター窯の方がコピーした人気の図柄であった。 ターナーのステアタイト磁器窯業は、ごく短期の間に大成功を収め、ドクター・ウォール期末期からフライト期にかけてのウースター窯業に、甚大な影響を及ぼした。ウースター窯の経営の屋台骨は、この時期のカーフレイ窯によって相当傾いたと考えられる。ウースター窯は、地元ウースターの街とロンドンに販売所を設けていたが、両市において1770〜90年代にかけて、販売実績を飛躍的に伸ばしたのはカーフレイ窯のステアタイト磁器だった。ウースター製の作品よりも割安な価格で販売されるカーフレイ製ウースター・スタイルの磁器が、ウースターでもロンドンでも非常によく売れていったのである。 ターナーがロンドンに販売所を設立したのは1783年で、この年はロンドンの磁器商人でウースター製品の販売代理業を務めていたトーマス・フライトが、ウースター窯を買収した年であり、同時にフライトに反発したチェンバレン父子がウースター窯を去ろうとした年でもある。ウースターとロンドンの街で、ウースター窯、カーフレイ窯、チェンバレンを巻き込んだ熾烈な販売抗争が巻き起こる発端となる出来事が、同時に発生していたということになる。カーフレイ窯の販売所はロンドンのポルトガル・ストリートにあり、「サロピアン・チャイナ・ウエアハウス」と称した。 しかし、カーフレイ製の焼き物は、単に安価だったがゆえによく売れたというわけではない。また安価であるがゆえに品質が悪かったということもなかった。カーフレイ窯が作るステアタイト磁器とその加飾(染付文様)は、ウースター製品を凌ぐ品質でありながら価格が手頃だということで、市場を席巻したといえる。 「休日に妻と二人で、磁器片の発掘を兼ねてカーフレイ工場の跡地までピクニックに出掛けるのが大好き」というジェフリー・ゴッデンは、自著の中で、カーフレイ製染付磁器のいくつもの素晴らしいコレクションを示した上で、「カーフレイ窯の作品は、1775年以降に作られたウースター窯製品よりも優れている」と断言している。この意見は一部の人にとっては衝撃であろうが、少なくともカーフレイ製品はウースター製品と同格に優れている、とまでは言い切ってよい。従来、優れたステアタイト磁器=ウースター、質が悪いステアタイト磁器=カーフレイ、という固定概念があったが、このような把握の仕方は完全に捨て去るべき誤解である。 1967年にカーフレイの工場跡地の発掘が行われると、これまで謎に包まれていたこと、誤解されていたことの多くが証拠付けられるようになった。たとえばカーフレイ窯の跡からは、色絵を付けた磁器片は見付からなかった。そこでカーフレイ窯では、白磁を一旦セヴァーン川経由でウースター市に運び、ウースター窯の競争相手であったロバート・チェンバレンの絵付け工房で加飾させ、ウースター市内やロンドンで色絵磁器を販売していたことが判った。この関係は、チェンバレンがそれまで絵付け用の白磁を仕入れていたフライト・ウースターと決裂した、1788年末から89年初にかけての時期に始まり、チェンバレンが自力で白磁を焼けるようになる1793年まで続いた。またチェンバレンは1789年、ジョン・フライトのフランス外遊中を狙って、ウースター窯の小売り販売店を買収し、帰国して事実を知らされたジョン・フライトを打ちのめしたが、このときの資金をチェンバレンに融通したのはトーマス・ターナーだった。 このようにチェンバレンとの深い関わりの中で、色絵を外部発注していたカーフレイ窯は、自社工場では染付磁器しか作っていなかった。しかし両者の関係が必ずしも良好だったとは言えない。フライト・ウースターと決裂して間もない1789年に、ロバート・チェンバレンの息子であるハンフリーがトーマス・ターナーに送った手紙には、「昨日三箱の染付磁器の荷ほどきをしましたが、(送られてきた)数のあまりの少なさに驚きました」とあり、その後も不平不満を記した手紙をターナーに送っている。ターナーの白磁供給量に対するチェンバレン親子側の欲求不満は、結局解消することはなかったようで、1793年一月の手紙では、チェンバレンが白磁の自力供給を達成したこと(つまりチェンバレン独自の本焼成窯を建てたこと)を示唆し、これ以後はカーフレイ製白磁を買わなくなってしまった。また1790年代にはターナーが得意としたシノワズリー(中国風)絵柄の銅版転写が流行遅れとなって飽きられ、カーフレイ窯は売り上げが落ちて借金を抱えるようになった。 1795年には、カーフレイ窯近郊でエドワード・ブレイクウェイ、ジョン・ローズ、リチャード・ローズが新しく窯業を興した(1791年説、および93年説もある)。この会社は後に「コールポート」と称するようになる。続いて1796年には、それまでニューホール窯が保持していた硬質磁器製造に関する特許が期限切れとなり、フライト・ウースター、チェンバレンズ・ウースター、コールポートなどが相次いでハイブリッド・ハード・ペースト(擬似硬質磁器)を作るようになったため、カーフレイ窯のステアタイト磁器は時代後れになってしまった。 1775〜95年頃にかけて全盛だった染付磁器は、ウースター窯、カーフレイ窯、輸入中国磁器の三者が、英国の市場をほぼ独占する状態であった。しかし次第にかげりが見え始めた染付人気を見て、ウースター窯では1785年以降、染付の製造をやめてしまった。19世紀後半になって「ロイヤル・リリー」「クイーン・シャーロット」などと通称されるようになる名高い図柄も、後年安価な量産磁器をフライトが復活するまで、作られなくなった。また中国磁器を輸入していたイギリス東インド会社も、1790年代には中国磁器の輸入を縮小し始め、やがてほぼ磁器輸入から撤退してしまった。 このような世の中の流れには、当然カーフレイ窯も無縁ではいられない。染付や転写しか作らなかったカーフレイ窯は、徐々に流通先を失ってゆく。そこでターナーは、遅くとも1797年にはコールポート窯との事業提携を開始し、カーフレイ窯製の白磁をコールポート工場に運んで、色絵と金彩の仕上げを行わせるようになった。この時期のカーフレイ磁器の形状と絵付けのデザインは、チェンバレンズ・ウースター製品を強く意識したもので、またコールポート窯でもチェンバレン風の造形デザインによるハイブリッド・ハード・ペースト磁器を製造したため、1790年代後半〜1800年代初頭にかけての三社の作品を判別するには、相当の知識と経験が必要になる。 しかし遂に1799年十月、トーマス・ターナーは、依然として権利を保有していた石炭炭鉱のリース権と工場設備類を、ジョン・ローズ、エドワード・ブレイクウェイ&リチャード・ローズ社(コールポート窯)に売却し、ロイヤル・サロピアン磁器工場=カーフレイ窯は終焉となった。在庫品は同年の翌十一月に、シュルズベリ近郊で競売された。東インド会社や中国磁器と密接な関係にあったリヴァプールの各窯が、1790年代にバタバタと全滅し、ハーキュラネウム一窯を残すのみとなってしまったり、オランダ貿易を通じて中国磁器と密接な関係にあったロウストフト窯が、やはり1799年に閉窯してしまったのも、同じ風潮、すなわち中国風の絵柄や染付磁器が不人気になったことによるものである。 売却後の旧カーフレイ工場はコールポートによって継続して使用され、ステアタイト磁器にかわってコールポート窯の特徴であるハイブリッド・ハードペースト磁器(擬似硬質磁器)が焼かれた。1803年にコールポート窯の有力な資金源であったウィリアム・レイノルズが亡くなると、ジョン・ローズは同年破産する。この再生のために、彼は2エーカーのカーフレイ工場の土地設備一式や、水車小屋、牛小屋などの資産を売りに出した。結局、新たな出資者を得て旧カーフレイ工場を失わずに済んだローズは、1814年までここを維持し、同年旧カーフレイ窯の工場は廃止された。しかしターナーやハンコックが刻んだ転写用銅版は、1840年代にコールポート窯がボーンチャイナの製造を始めるまで、同窯で引き続き使用された。 ここで改めてカーフレイ窯に関する様々な誤情報を一覧表記し、現在正しいとされている説を対照表記しておく。 1967〜69年以前(誤) 1.ターナーとウースター窯の関連性を示す証拠はない。職人でも徒弟でもない。 2.ターナーはウースターの街で中国磁器を売っていた。 3.ウースター・カーフレイ式のステアタイト磁器のうち、1775年以降の優れた染付品はウースター製、品質が劣った染付品はカーフレイ製。 4.カーフレイ製の色絵磁器は自社工場内絵付け、染付や金彩のみの作品はチェンバレンズ・ウースター絵付け。 5.高台内の釉薬が収縮して高台脇に素磁が露出しているのはウースター窯だけの特徴。 6.ウースター製品の透過光は緑色、カーフレイ製品の透過光はオレンジ色。 7.カーフレイ窯の釉薬溜まりは青色。 8.「C」の窯印のうち、Cの文字の中に複数の横線が引かれているものは、ウースター窯にもカーフレイ窯にもある。 9.数字(1〜9までが確認されている)と音楽記号(八分音符、フェルマータ、ヴィオラ楽譜に使うハ音記号など)を組み合わせた窯印は、カーフレイ製。 1967〜69年以降(正) 1.ターナーはウースター窯の転写用銅版彫刻師であった。 2.カーフレイ窯の跡地から中国磁器片が出土するので、ターナーは1775年以降、カーフレイに来てから中国磁器の販売も行っていた。 3.ウースター・カーフレイ式のステアタイト磁器のうち、1775年以降の優れた染付品はカーフレイ製、品質の劣った染付品はウースター製の場合が多く、作品の品質による判別はできない。 4.カーフレイ製の色絵磁器はチェンバレンズ・ウースター絵付け、染付や金彩のみの作品は自社工場内絵付け。 5.高台内の釉薬が収縮して、高台脇に素磁が露出しているのはウースター窯、カーフレイ窯、リヴァプールのリチャード・チャファーズ=フィリップ・クリスチャン窯に共通する特徴。したがって釉薬の収縮による判別はできない。 6.ウースター製品の透過光はおおむね緑色、カーフレイ製品の透過光はおおむねオレンジ色であるが、それぞれ例外があるので、透過光による判別はできない。 7.カーフレイ窯の釉薬溜まりは緑色。 8.「C」の窯印のうち、Cの文字の中に複数の横線が引かれているものは、ウースター窯の窯印。 9.数字(1〜9までが確認されている)と音楽記号(八分音符、フェルマータ、ヴィオラ楽譜に使うハ音記号など)を組み合わせた窯印は、ウースター製。 上記からもわかるように、カーフレイ窯に関する文献のうち、1969年以前に出版された書籍類には、信頼の置けない記述が含まれている。この基準に照らせば、1964年に初版刊行されて以来、英国製窯業作品の窯印集成の決定版として高い評価を受けているジェフリー・ゴッデン著「英国製陶磁器の窯印百科(Encyclopaedia of British Pottery and Porcelain Marks)」(ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」 p.229参照)でさえも、カーフレイ窯とウースター窯のマークで取り違えを起こしている。1991年刊の改訂版では注記が付けられ、この部分が修正されているので、古い版の本をお持ちの方は注意して頂きたい。 ここで紹介するティー・ボウルは、俗に「ターゲット・パターン」と通称される図柄で、カップ見込みとソーサー中央にダーツの的のような図柄がカラフルに描かれていることに由来する。これは輸入中国磁器にもほぼ同じデザインがあるため、中国製品のコピーと考えられる。ここでは分割された的の各色にグラデーションの濃淡をつける凝った描き方をしている。 美しい釉薬がかけられた薄手の磁胎は、ほぼ無色に透ける。 色絵の作品であるため、ウースターにあったチェンバレンの絵付けスタジオで仕上げられたものと推測される。 |
カーフレイ
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1780〜85年
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ティー・ボウル:H=50mm、D=87mm/ソーサー:D=140mm
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18世紀後半のロンドンには、様々な独立系絵付け工房があった。これらの工房は自分で白磁を焼くことはせずに、既成白磁を他社から購入し、上絵付けや金彩仕上げだけを行うという営業形態をとっていた。こうした中で最も有名な工房が、ジェイムズ・ガイルズの絵付けスタジオである。 ガイルズの祖父と、父ジェイムズ・ガイルズ(父子同名)は、フランスのリーユに住んでいたが、ユグノー教徒に対する宗教弾圧を逃れてイギリスに渡った。父も磁器の上絵付け師であり、兄のエイブラハムも絵付け師になったペインター一家の次男として、息子のジェイムズ・ガイルズは1718年に生まれた。彼は1733年、十五歳でロンドンのセント・マーティン・イン・ザ・フィールズにあった宝石商ジョン・アーサーの店へ徒弟として入った。当時の宝石商は婦人用高級時計へのエナメル装飾や、陶磁器、ガラス器などへのエナメル加飾などの仕事があった。 1743年に十年間の修業を終えると、ガイルズは独立して、ロンドンのソーホー地区のバーウィック・ストリートに、自らの絵付け工房を開いた。1747年の記録では、ガイルズは「磁器商人」として登録されている。商品は中国磁器が主で、その他チェルシー窯やボウ窯の製品を扱っていたとみられる。その後ガイルズは、ペインターやエナメラーとしても記録されている。この場合の「エナメラー」とは、貴金属やガラスにエナメル装飾をする職人・工房のことで、ガイルズは陶磁器ばかりでなく、このような工芸品も販売していた。 1760年にはケンティッシュ・タウンに上絵付け用の窯を設置して、本格的に白磁への絵付けを開始した。ガイルズはチェルシー窯やボウ窯の白磁への絵付けも行っていたが、1760年以降は次第に白磁の供給先をウースター窯に限定していったとみられる。 1983年に、旧ウースター窯のウォームストリー・ハウス工場跡地の発掘が行われたが、1760年代当時の磁器片が相当大量に発掘されたにもかかわらず、上絵の色絵付けをウースター窯が行っていたことを裏付ける証拠となる磁器片は、ただの一つも発見されなかった。英国のウースター学者の一部は、頑迷にもこの事実を受け入れようとしないが、この1983年の発掘に参加して、現実を自分の目で確かめたマイケル・バーソードは、「ウースター窯はカーフレイ窯と同様に、色絵付けを外部で行っていた」という論者である。 ウースター窯はガイルズ工房の商売が軌道に乗り、ロンドンにおける自社の販売所の売り上げを圧迫するようになると、ガイルズ工房に対して質の悪いセカンド・クオリティーの白磁ばかりを売りつけるようになった。しかもその価格は決して安からぬものだったのである。しかしガイルズは白磁の仕入先をウースター窯に頼り過ぎていた。白磁の質が低下するにつれ、ガイルズ工房の名声もあっけなく失墜し、1765年に工房は破産する。 ガイルズ工房の失敗の一件(白磁供給元が絵付け工房に対する生殺与奪の権利を握ってしまうこと)に対する恐怖感は、その後の絵付け工房や窯業経営者の心の奥深くに刻まれ、白磁の確保の成否に戦々兢々とするようになった。チェンバレン、グレンジャー、ジョン・ウッド、トーマス・ミントンなどが白磁の自給自足にやっきになったのも、これらの人々の脳裏にガイルズ工房にまつわる苦い記憶があったから、ということがわかっている。 その後ガイルズは、1767年に、ロンドンのコックスパー・ストリートに新たな工房を設置して、「ウースター・ポーセリン・ウエアハウス」と名乗った。ここではガイルズ自身が「ウースター工場のエナメル部門」と称したように、依然として懲りもせず、ほとんどの白磁供給元をウースター窯に頼っていた。当時のウースター窯の実態が、本当に発掘の結果通りだったとすれば、1760年代を通じてウースター窯製の色絵磁器はガイルズ工房が中心となって製造していたわけであり、まさしく「ウースター窯の色絵出張所」という表現が正しい。 しかし結局ウースター窯とガイルズ工房は、それぞれの売り上げの差や仕入れ金額、納入マージンをめぐる対立を深め、遂に1771年、両者は決裂した。ウースターから白磁の供給を止められたガイルズは、それでもなおウースター製の簡素な金彩仕上げの完成品を買い、それに色絵装飾を描き足して売るという、哀れな商法を続けた。結果的にコックスパー・ストリートの工房・販売所はつぶれてしまったが、バーウィック・ストリートの店は残ったので、ガイルズはボウ窯やフィリップ・クリスチャン窯(リヴァプール)の白磁や、フランケンタール窯、ニンフェンブルク窯といった大陸製白磁に色絵付けを行う一方、ダービー窯の完成品や中国漆器なども販売した。ときおりボウ窯やフィリップ・クリスチャン窯の製品で、ウースター窯の色絵とそっくり同じ図柄の作品を見ることがあるが、これはガイルズ工房が様々な窯の白磁に同じ絵柄を描いているために起きることである。 1775年にカーフレイ窯ができると、すぐにトーマス・ターナーの名前がガイルズ工房の台帳に現れる。カーフレイ製品が流通し始めたのが翌1776年からであるということも、ガイルズ工房の帳簿から証明される。しかしガイルズは、1771年のウースター窯との決裂からカーフレイ窯成立までの五年間で、ウースター製磁器(簡素な金彩を施した完成品)を絵付け用として仕入れるのに、1370ポンド以上も費やしていた。これは白磁を卸してもらえず、完成品を買わされたということもあろうが、ウースター製品がいかに高価に販売されていたか、そしてガイルズがそのウースター窯に対していかに未練があったかを表している。1776年になって、ウースター製品と同格の良質なステアタイト磁器がカーフレイ窯から安価に入荷するようになり、ガイルズが一年間にカーフレイ窯に支払った仕入れ代金は、174ポンド余りだった。 ジェイムズ・ガイルズは1780年に亡くなり、彼の死後の工房では、主に金彩のフェストゥーン装飾中心の絵付けが行われた。しかしその芸風は、ガイルズ工房が持っていた本質的な部分の特徴を、確実に受け継いだ雰囲気を保っているといえる。無論ガイルズ工房で育った絵付け師たちが他窯で新たな職を得て、この工房の絵付け芸術の真髄が、二十世紀に至るまで英国内で脈々と継承されたことも揺るぎない事実である。特にガイルズ工房の特質を守った絵付けを伝えたのは、グレンジャーズ・ウースターである。 ところで「ジェイムズ・ガイルズ」の名前の読み方・発音について述べておく。ガイルズの一家はフランス人で、もともとの名前の発音は「ジル」といった。イギリスに渡ってから名前の読み方を英語風に変えたため、はたして読み方が「ガイルズ」なのか「ジャイルズ」なのかという疑問が生じる。こういう場合、筆者がとる立場は「どちらでもよい」という考え方だ。そもそも外国語をカタカナで表記しようとすること自体に無理があるし、録音がない以上、当時の発音はわからない。 しかし筆者は「Giles」のスペリングを「ガイルズ」と読んでいる。これには根拠があるので、説明しておこう。 1700年代当時のJames Giles関連の文献(一次資料、古文書)を調べてみると、 彼の名前のスペリングが「Giles」ではなく「Gyles」と書かれている場合が多いことに気付く。しかもこれは頻繁に見かける綴りである。 人名の「Giles」には「ガイルズ」「ジャイルズ」という二通りの読み方があるが、「Gyles」には「ガイルズ」という発音しかなく、「ジャイルズ」とは読まない。「gyle=ガイル」とは「発酵麦芽汁」すなわちビールやウイスキーのもとを表す単語で、複数形の「gyles」では発酵させる樽を意味する。パブで振る舞われるビールやスコッチ・ウイスキーを楽しむことが日常的に大好きな英国人にとって、「gyle」は耳慣れない単語ではなかった。 もし「James Giles」が「ジェイムズ・ジャイルズ」という発音だったら、「Gyles」とは綴らなかったはずである。「ガイルズ」と聞こえたからこそ、それを耳にした人によって彼の名前はしばしば「Gyles」と綴られたと考えられる。 現代の英国には「Giles」というスペリングで「ガイルズ」と発音する人も、 「ジャイルズ」と発音する人も、どちらもたくさん住んでいる。したがって、あくまでも読み方はどちらでもよい。しかし筆者が敢えて「ジェイムズ・ガイルズ」と書く理由は、彼が「ガイルズさん」と呼ばれていた証拠が「Gyles」という記名になって残されているからなのである。 ここでは、カーフレイ製のステアタイト白磁に、ジェイムズ・ガイルズが1780年に亡くなった後の工房で絵付けされたティー・ボウルをとりあげる。 全体にガイルズ工房の特徴にもなっている豪華で華やかな金彩によるフェストゥーンが張り巡らされ、ボウル見込みとソーサー中央には装飾的な星文様、菱形の枠内に黄緑のエナメルで地色が付けられ、微細な葉脈まで表現されたアカンサスに似た葉を四枚組み合わせた文様が金彩で描かれている。数種類の小花も散らされ、カップの内側にはフェストゥーンと同じオリーブの葉状のバンドも描かれていて、贅沢な仕上がりになっている。 形状はカーフレイ窯で「ブローズレイ・シェイプ」と呼ばれるヴァーティカル・フルート・タイプの造形になっている。 本品と同じヴァーティカル・フルート造形のカーフレイ製ティー・カップ、コーヒー・カップが、「アンティーク・カップ&ソウサー」p.48に掲載してあるので、ご参照いただきたい。 また「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.122 にジェイムズ・ガイルズに関する記述があるが、ここで「ウースター地方にスタジオを持っていた」と書かれているのは「ロンドンにスタジオを持っていた」の誤りなので、ご注意いただきたい。 |