ブリストル、ウィリアム・クックワーズィー期
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1770〜71年 染付で十字の窯印
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コーヒー・カップ:H=58mm、D=65mm/ソーサー:D=130mm
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ブリストルはセヴァーン川の河口付近に位置し、対北米貿易、中でも奴隷貿易を中心として栄えた商業都市である。アフリカで拉致された黒人達はブリストル港で競売にかけられ、奴隷として北アメリカ大陸に運ばれていった。 この街に磁器窯業が開設されたのは1749年頃で、経営者はベンジャミン・ルンドであった。ルンドが焼いたのはソープ・ロック(ステアタイト=凍石)を含有する軟質磁器で、この製造法に着目した医師ジョン・ウォールと薬剤師ウィリアム・デイヴィスは、他の株主を募って資金を集め、ルンドのステアタイト製法を買収した。彼らはブリストルからセヴァーン川を遡ったウースター市に工場を建設して技術を移転し、ルンドと同様のステアタイト磁器を作った(ウースター窯)。この「ルンズ・ブリストル工場」を「前期ブリストル窯」と呼ぶ。 後期ブリストル窯の経営者となったリチャード・チャンピオンは、 1743年11月6日に生まれた。七歳から十八歳までロンドンに寄宿して英才教育を受け、1762年にブリストルへ帰還した。 1764年3月25日、父親の反対を押し切って、妹サラ・チャンピオンの友人であったユディット・ロイドとスコットランドのエディンバラで結婚し、同1764年にはクエーカー教徒仲間であるウィリアム・クックワーズィーの知己を得た。 クックワーズィーはチャンピオンにとって、祖父と孫ほども年齢が離れた、当時五十九歳になる化学者で、薬種商を営んでいた。彼は中国式硬質磁器の材料と焼成法についての知識を古くから有していたが、十分な資金力を持たなかったために、磁器製造の夢を果たせずにいた。チャンピオンはクックワーズィーに出資して窯を建設し、ブリストルでの磁器焼成実験が開始された。磁器材料のカオリン土は、妻の兄であるキャレブ・ロイドがアメリカ大陸のサウス・カロライナ州から送った。しかしこの素材では中国式の硬質磁器を作るには不十分で、クックワーズィーの焼成実験は1765年12月までで終了した。チャンピオンはこの失敗事業に 600ポンドを費やす結果になった。 翌年クックワーズィーはプリマスに移り、1766年12月から同地で窯の建設を開始し、やがて英国初の真正硬質磁器焼成に成功する。 この間チャンピオンは 1765年4月20日にブリストルの公民権を獲得し、翌1766年に同市の商業組合員となった。1772年には組合長に就任している。チャンピオンは北アメリカと西インド諸島を相手にした貿易商であったが、黒人奴隷は扱っていなかったとされる。1769年以降は共同出資者との提携を解消し、チャンピオン単独でビジネスを展開するようになった。 1768年 3月17日、ウィリアム・クックワーズィーは「ムーアストーンとグロウアンに関する特許」、いわゆる硬質磁器用の材土を調達する鉱山の独占使用権を獲得し、プリマスにおける磁器窯業を本格的に軌道に乗せたが、商業的な成功はできなかった。そこでチャンピオンは過去の出資金回収のため、クックワーズィーに対する圧力を強め、遂に1770年、プリマス窯をブリストルに移転させた(→美術館プリマスのページ参照)。これは1770年発行の「ベロウズ・ウースター・ジャーナル」誌上に、新規に開設するブリストル窯でのペインター募集の求人広告が掲載されていることから確認できる。 しかしブリストル窯はチャンピオンが直接差配したわけではなく、当初はクックワーズィーに経営させ、1772年以降はクックワーズィーの弟子であるジョン・ブリテンを工場監督に据えた。その後クックワーズィーは窯業への関わりを諦め、1773年 9月に特許権をチャンピオンに売却して去り、権利は翌1774年 5月に発効した。この鉱山独占使用権は、コーンウォール地方の地主で領主のトーマス・ピット(後の初代キャメルフォード男爵)に対し、1770年から99年間更新できる条件だったが、1775年にはジョサイア・ウェッジウッド一世を中心とするスタッフォードシャー窯業群から特許権延長に反対する運動を起こされ、チャンピオンはこれを凌ぐための議会対策費と裁判費用で、多額の資金を浪費してしまった。またトーマス・ピットもチャンピオンに対し、鉱山から採掘した土に従来の二倍もの使用料を課すようになり、これらが製磁事業を圧迫し始めていた。 ちょうど同じ年、1775年に勃発したアメリカ独立戦争の影響により、それまで新大陸との植民地貿易で繁栄していたイギリス商人達は、売り上げ激減の苦境に喘いでいた。1775年には少なくとも六隻もの外洋貿易船を所有していたチャンピオンも、独立したアメリカ合衆国が実施したイギリス船拿捕政策により一隻が捕らえられ、積み荷は没収、乗組員の返還には莫大な補償金を要求されていた。 それでも富裕なチャンピオンは最後まで破産することはなかったが、資金難に陥った1778年、九十一人いた債権者の一部からの異議により、非破産ながら破産管財人が選定され、事業は強制的に管財人の手に委ねられ、整理・清算の手続きに入った。こうして再建を待たずに確定させられた債務は、チャンピオンの死後も子孫が引き受け、その返済には四十三年間を要した。 1780年にスタッフォードシャー地方を歴訪したチャンピオンは、嘗ての裁判で争ったジョサイア・ウェッジウッド一世を11月11〜12日にかけて訪問した。このときの様子はジョサイア一世がビジネス・パートナーであるトーマス・ベントレーに宛てた報告書の中に記載されている。チャンピオンは、近頃15,000ポンドの積み荷とともに所有する貿易船が沈没したと述べ、磁器製造の秘密やデザイン、特許権などを含めて 6,000ポンドで売りたいと申し出たので、チャンピオンの特許等を買い取りそうな十人の窯業者を紹介した、と書かれている。 チャンピオンは、当初から特許権や磁器製造法を売却してしまう計画ではなかった。彼が1781年9月3日に書いた手紙によれば、年間12ギニーで、カオリン鉱山使用権を誰にでも貸し出したい、となっている。しかし使用料徴収の最終合意は成立しなかったようで、1781年11月にスタッフォードシャー地方の六人の窯業者達に特許権を売却してしまった。これがニューホール窯設立のもとになった(→美術館ニューホールのページ参照)。 チャンピオンは破産管財人の強い勧めにより、半強制的にブリストルを追い出され、1781年11月 5日、スタッフォードシャー州ニューキャッスルのメリル・ストリートに移住した。このときの新居に併設して、チャンピオンは磁器の実験研究施設を建設したことがわかっている。1782年3月18日には、地元の消防署に火災保険金総額1,000ポンドを積み立てた書類が残されており、その中には染付用コバルト原石に300ポンド、研究所建物に100ポンドの保険金が含まれている。 ここで意見が分かれるのは、はたしてチャンピオンが磁器の素材についての知識を持っていたのか、という点である。従来は「チャピオンは窯業に関しては無知だった」というのが定説だった。この説の根拠はジョサイア・ウェッジウッド一世の手紙である。そこには「焼き物についてチャンピオンは素人だ」と記されている。 これに異論を唱える人達は、チャピオンがニューキャッスルの自宅にコバルトを溜め込み、実験棟を建てていたことを挙げる。またジョサイア・ウェッジウッド一世は、彼本人や関係者が残した様々な手紙や日記などから、傲岸不遜な性格で人を見下す嫌味な男だったことがわかっている。したがってジョサイア一世の記述は、ロンドン仕込みの学問を備えた紳士であったチャンピオンに対する彼のひがみが原因した虚偽であり、実際にはチャンピオンは焼き物に詳しかった、という論調が、現代では主流になりつつある。小学校にすらきちんと通えなかったジョサイア一世は、自分が教養に欠けるという劣等感により、学問を修めた人から馬鹿にされまいと虚勢を張り、威張り散らす人間だったことは確かなようで、これはジョン・ダヴェンポートやウィリアム・コープランドなど、スタッフォードシャーの成金窯業者の多くに共通する性格であった。 1782年にはブリストル窯の最終在庫処分セールがオックスフォードで開催されたが、これを最後にチャンピオンは窯業との縁をすっぱりと切り、スタッフォードシャー移住から僅か五か月後の1782年4月8日、実験施設をたたんでロンドンへ移った。これは時の首相ロッキンガム侯爵チャールズ・ウォトスン(ワトソン)−ウェントワースの招きに応じ、国庫局出納副長官の要職に就任したためである。やがて政権も変わり、職を辞したチャンピオンは、1784年、イギリスに永遠の別れを告げ、アメリカ合衆国サウス・カロライナ州へと旅立った。サウス・カロライナには妻の兄キャレブ・ロイドが住んでおり、またチャンピオン自身も農業プランテーションを所有していた。 同地で暮らすこと六年の1790年に妻を先立てると、チャンピオンは意気喪失し、そのあとを追うように1791年10月17日、不帰の人となった。四十八歳の誕生日を二十日後に控えた、短い生涯であった。 ブリストル窯のテーブル・ウエア類の特徴として、素磁に発条状の成形痕が残っていることが挙げられる。これはスクリューのような螺旋文様で「リーシング」と呼ばれ、ろくろ成形時に指もしくは器具によって残されたものである。その他、素地に穴や窪み、裂け目があったり、口縁に焼成時の割れ(窯瑕)が起きたりもしている。これらは技術が未熟で出来が悪いことを示す要件ではあるが、それでもプリマス窯時代に比べると磁器の品質はかなり向上したといえる。 絵付けの面では、初期の数年間にはマイセン窯やセーヴル窯、ダービー窯を意識した、豪華な多色の花絵やフェストゥーンなどがデザインされ、ロンドンの絵付け専門工房にも劣らぬ水準の精巧な色絵が描かれた。特に優れた絵付け師として名前が知られる人物には、ヘンリー・ボーンとウィリアム・スティーヴンズがいる。 ところが経営が傾き始めた1775年以降は、絵付けの品質が極端に悪くなり、チャンピオンが事実上の破産となった1778年から閉窯までは、昔日の面影など一切なくなった雑器を作った。これらの製品群は「コテージ・ブリストル」と呼ばれ、金彩もなく、品格の乏しい中国人図や、手抜きの甚だしい花絵やボーダー装飾などを施して安価に売られたが、評判は非常に悪く、商業的には全く成功しなかった。 ブリストル窯のマークは、ドレスデン美術アカデミー管理下時代(1763〜73)のマイセン窯の窯印を模した双剣に点一個の染付印や、十字クロスの窯印などがあり、それぞれ 1〜26までの数字が添記されている。 本品はブリストル窯の基本的形状である二段のくびれを伴うモールドで成形され、ごつごつとした大きなハンドルが取り付けられている。このハンドルは植物造形の風変わりなインナー・スパーが特徴である(→資料室)。 図柄もこの窯の基本となるもので、黄緑・青緑・深緑でシンプルなフェストゥーンが描かれ、赤い実が細かく点じられている。このデザインは後世のメーカーによって様々にコピーされ、20世紀に入っても多くの類似品が模造されている(「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.121 後列一番右に、ハマーズレイ社が製造した同一図柄のティー・カップを掲載)。 本品には十字の窯印と金彩で「1.」の記入があり、ウィリアム・クックワーズィーがパテントを売却して去る前に製造された初期作品である(「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.217参照)。 |