コラム4
『エジプト副王イスマーイール・パシャの野望 −歌劇「アイーダ」の初演−』
ジノリ
1869〜1896年 釉薬下に緑でGINORI Gの焼成印、釉薬上に朱で王冠にGINORI ITALYの加飾印
ティーカップ:H=57mm、D=91mm/ソーサー=150mm
 
 
 イスマーイール・パシャは1830年、オスマン・トルコ支配下のエジプト・カイロに生まれた。彼の祖父ムハンマド・アリー・パシャが1805年にエジプト総督としてトルコから赴任して以来、彼の一族はカイロを本拠として繁栄し、エジプトを支配していた。「パシャ」というのは、オスマン・トルコ帝国の高級軍人や州知事などの支配者に与えられる尊称である。
 イスマーイールは万博の時代が始まる1840〜50年代という国際化の時期に、その胎動を色濃く宿したパリで暮らし、学問を習得した。1863年に兄のムハンマド・サイード(サイード・ムハンマド)の死によってエジプト総督の跡を継ぎ、カイロに定住した。イスマーイールはカイロを自分好みの近代都市に発展させようとし、カイロ西部にパリ市街を模した新街区を建設した。また当時まだ高級品だった砂糖事業に力を入れ、綿花産業の伸長で蓄えた富で宮殿を新築した。国富の充実もはかり、郵便制度を確立したり、長大な鉄道敷設事業を行った。パリさながらの華麗な街に変身したカイロに満足したイスマーイールは、「エジプトはもはやアフリカではない。ヨーロッパの一部となった。」という言葉を残している。イスマーイールは急速で極端な欧化政策を採ったが、エジプト近代化の礎の多くは彼が固めたものである。
 彼の事業の中でも特によく知られたものに、スエズ運河の開通がある。スエズ運河は兄のサイードの時代から事業計画が進んでいたが、エジプトはこの事業にからんで巨額の資金を拠出させられ、借金状態となっていた。しかしこの運河が開通すれば、世界中の貿易船はヨーロッパ航路の途中で南アフリカの喜望峰を迂回しなくてよくなり、安全・迅速な国際交易実現には欠かすことができない事業であった。またエジプトにとっても、世界中の商人や観光客の通り道となることは、外貨獲得、経済発展に極めて有利に働いた。ヨーロッパ人が集まる華やかな観光・文化都市というのは、フランスかぶれのイスマーイールにとっては最も理想とする支配地の姿であった。
 1867年、イスマーイールは万博を見るためにパリへ向かい、その帰途にイギリスを訪問し、ヴィクトリア女王から最大級の歓待を受けたが、この年彼は本国のオスマン・トルコに強力に働きかけて、新たに「ヘディーヴ」という称号を獲得していた。
 オスマン・トルコ帝国では、エジプトに派遣する軍事的・政治的支配者に「ワーリー(Wali=総督)」という称号を与えていた。イスマーイールの一族も、代々「ワーリー」を世襲している。しかし彼は「総督」には飽き足らず、より格が高い称号「アジーズ」を名乗りたいとして、オスマン・トルコの皇帝、スルタン、アブドゥル・アジーズと折衝した。この称号は「王」クラスに相当する。結局スルタンは「アジーズ」を認めなかったが、「ヘディーヴ(Khedive=副王)」とすることで交渉は決着した。したがってイスマーイールはオスマン・トルコ帝国最後のエジプト総督であり、最初のヘディーヴとなった。
 ヘディーヴとなって二年後の1869年、イスマーイールは二度目のイギリス訪問をした。これはスエズ運河完成に関する外交である。運河の開通祝賀式典は同年11月に行われることとなり、イスマーイールはカイロの街の整備を急いだ。カイロからギザのピラミッド群までの観光用道路は、このときの突貫工事で完成したものである。
 国際化と万博の時代の寵児であった彼は、スエズ運河開通祝賀式典の内容についていろいろ考えた末に、カイロにオペラハウスを建設し、そこにヨーロッパの王室からの賓客を招いて記念公演を行うことにした。この時代、辺境にあった王室や企業は、パリやウィーンの芸術・文化に追随し、それを模倣することが発展の早道であり、社会全体にコピー文化が蔓延していたのである。
 後にイスマーイールが職を譲ってヘディーヴの位から退いた1879年に、モナコ公国の首都モンテカルロで、「ガルニエ・ホール」と呼ばれる王立オペラハウスの柿落としがあった。1861年にイタリア圏のサルディーニャ王国の保護下から独立して主権を獲得したモナコ公国では、国家財政の立て直しのため、国全体を観光リゾート地化する政策を推し進めた。ハンブルクから顧問を招き、北ドイツを真似たカジノや温泉施設(タラソテラピー)などを作ったが、今では誰もが高級リゾートの代名詞と目するこれらの事業も、当初は「ドイツの猿マネだ」と国際的な嘲笑の的となった。しかしモナコ公国は、コピー・模倣文化を巧妙に利用し、それを最も成功に導いた企業体国家といえる。モンテカルロでは建築の分野でも、パリのオペラ座を設計したシャルル・ガルニエを招き、1863年にはグラン・カジノやグラン・オテル・ド・パリなどフランス趣味の建物が作られた。モンテカルロのオペラハウスは、最後の、そして最高の社交場として、やはりガルニエが設計した黄金の殿堂である。このように豪華なオペラハウスを所有し、そこに世界中の金持ちを招待することは、支配者の究極の欲望の終着点に等しかった。モナコ公国の考え方は、同時代を生きたイスマーイールの国際感覚に符号する。
 イスマーイールは、1869年11月のスエズ運河開通式典と、カイロのロイヤル・オペラ(「ヘディーヴィアル・オペラ」または「イタリア劇場」とも呼ばれた)の柿落としに、イタリアの有名なオペラ作曲家ジュゼッペ・ヴェルディに、何らかの祝典音楽を書くように依頼した。しかしヴェルディは機会音楽(その場の目的にだけ使用されるもの)を嫌い、この依頼を断ったため、オペラ劇場の柿落としにはヴェルディの旧作オペラ「リゴレット」が上演された。この「リゴレット」には、ウィーンからオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世夫妻や、パリからナポレオン三世妃ウージェーヌなどが招かれて観劇した。そしてオペラがはねた後の豪華なディナーやパーティーでの会食に使用するために、イスマーイールが特別に食器を注文したのが、イタリアのドッチア(フィレンツェ近郊)に窯を構えるジノリ社である。
 ジノリではイスマーイールの希望に応えるために特別編成チームを作り、ここでもテーマは「コピー・模倣」という方向性に傾いた。そこで食器の造形と文様を古代エジプトのデザインから引用することとし、エジプトの植生を調べて皿に花絵を描くことになった。こうして出来上がったのが、このページ冒頭に写真を掲載した造形と文様を持つ食器セットである。イスマーイールにちなんで「エジプト副王のサーヴィス」「ヘディーヴ・サーヴィス」という。この一連のジノリ社製食器類を「エジプト総督のサーヴィス」と呼ぶのは誤りで、正しくは「副王のサーヴィス」という。また「イスマーイール・パシャ・ケディヴェ」と呼ぶのも誤りで、正しくは「ヘディーヴ」である。
 ヨーロッパ中から招かれた王族などの賓客達は、北アフリカのエジプトの地でヴェルディのオペラを楽しみ、ジノリが作った古代エジプト風デザインの硬質磁器で、カイロに居ながらにしてヨーロッパ風の料理を堪能した。「国際化」の概念が「追従と模倣」「文化の移転(西欧化)」だった時代を象徴する出来事である。こうした傾向は同時期のロシアにも見られたし、さらに言えば日本も欧化政策による文化移転を経験した時期であった。
 ところで「エジプト副王のサーヴィス」は、これまで見たことがないエジプト風デザインの斬新さが大評判となり、一般向けにも販売されて19世紀後半のジノリ社の看板商品となった。強烈な色彩とユニークな形状から、アール・デコ装飾に見えるかもしれないが、初めに製作されたのはアール・デコより五十年以上も前である。
 スエズ運河の開通式典が終わり、年が明けると、華やかな宴の後のイスマーイールの心には、一抹の寂しさに加えて満たされない欲望が再び芽を吹いてきた。豪華なオペラハウスとイタリア製の高価な食器を手に入れたイスマーイールだったが、まだ自分のためのイタリア・オペラを入手できていなかったのである。王ともなれば、自分のためにオペラを作曲させなければ意味がない。そこで彼は、ジノリが古代エジプトをモティーフにした食器を作ったのと同様に、ヴェルディにも古代エジプトをテーマとする歌劇を書かせようとし、1870年、オーギュスト・マリエットが書いたエジプト悲劇の原案をヴェルディに送り、再びオペラ制作を委嘱する交渉に入った。
 オーギュスト・マリエットは元ルーヴル美術館の考古学者で、エジプトに派遣されてその文物をフランスに持ち帰った人物である。彼は帰国後もエジプトへの情熱が冷めやらず、再びエジプトを訪れて発掘と収集にあたった。マリエットはイスマーイールの信任が厚く、「ベイ」というオスマン・トルコ風の称号を得ている(マリエット・ベイ)。彼は神殿遺跡の発掘中に、遺跡の下に生き埋めになった男女の遺骨を発見し、オペラの原案を着想したとされる。一方最近の研究では、当時エジプトを舞台にした不人気なオペラがあり、これを真似してストーリーを作ったという説も出ている。
 ヴェルディはあれこれうるさい条件と高額の報酬を提示した末にオペラの作曲を引き受け、マリエットの原案をもとにアントーニオ・ギスランツォーニが台本を書いた。これが有名な歌劇「アイーダ」である。ここでは物語の詳説は避けるが、エチオピアとの戦争でエジプトを勝利に導いた将軍ラダメスは、エチオピアの王女で奴隷として捕らわれていたアイーダとの悲恋の挙げ句に、反逆の罪で生き埋め(餓死)刑に処されるというあらすじで、当時実際にエチオピアとの抗争による国力損耗に頭を悩ませていたイスマーイールにとっては、このオペラに表された圧倒的エジプト勝利の凱歌は、さぞかし溜飲を下げるものだったであろう。第二幕第二場に置かれた凱旋の場の行進曲がそれで、わが国でもサッカーの応援歌としてとみに知られているメロディーである。
 しかし「アイーダ」初演には困難が立ちはだかった。予定では1871年の年始の祝賀にこれを上演するはずであったが、前年1870年に勃発した普仏戦争のため、七月にはプロシア軍によってパリが厳重に包囲されてしまった。当時「アイーダ」初演の準備はパリで進められ、衣装や舞台装置はパリで作られた後、カイロへ輸送することになっていたが、これができなくなった。また衣装や舞台装置の装飾デザインは、エジプト文様に詳しいマリエット自身がパリで制作指揮を執ったために、マリエットもまたパリから脱出不可能となってしまった。
 ヴェルディは1871年2月にはミラノ・スカラ座で「アイーダ」のイタリア初演をする契約をしていたが、イスマーイールに配慮してこれを延期し、世界初演をカイロに譲った。そして「アイーダ」は予定から遅れること十一か月余りにして、1871年12月24日、イスマーイール臨席のもとにカイロで上演され、大成功を納めた。このときの祝賀会食会でも、ジノリの「副王のサーヴィス」が用いられた。「アイーダ」の舞台装置や、衣装の図柄と飾りは、このティーカップの把手の装飾デザインに用いられたリボンとロータス(蓮ではなく睡蓮の文様化。異説でパピルスとも)にとてもよく似ている。イスマーイール達は、まさに古代エジプト尽くしの一夜を過ごしたわけである。
 「アイーダ」世界初演から奇しくも百周年となった1971年10月28日、カイロ・ロイヤル・オペラ「イタリア劇場」は火災のために焼失した。エジプト政府は絢爛豪華なこのオペラハウスを再建することを断念し、イスマーイールの夢の楽堂は永遠に失われた。その後十七年が過ぎた1988年10月に、日本から65億円の経済援助と設計・施工の技術協力により、カイロに新しいオペラ劇場が完成した。ムバラク政権下のことである。
 イスマーイールは1895年にコンスタンチノープルで亡くなったが、彼がパリをモデルに再開発したもう一つの街アレキサンドリアに、その銅像が立っている。

「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.85下に、睡蓮(パピルス)文様とエジプト・ボーダー柄の作品を掲載。
「アンティーク・カップ&ソウサー」p.92に、本品と柄違いの作品を掲載。
 

 

 

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