ウィーン 第三期
1784〜87年 染付で盾の窯印
造形:フェルディナント・エーベンベルガー
 風景絵付:ヤーコプ・レスラー
 カップ木目絵付:ヤーコプ・ペーター/ソーサー木目絵付:ヨーハン・ダッフィンガー
コーヒー・キャン:H=58mm、D=60mm/ソーサー:D=124mm
 前掲のカップ&ソーサーに描かれた木目がいくぶんイラストがかった人工味が感じられたのに比べて、本品の木目は顔料の透明感と濃淡を生かし、筆をすべらせる極めて特殊な技法を用いて、より偶然性の強い天然自然な木目を表現している。三枚の板を継ぎ合わせたかのような意匠と、そこに貼られているモノクローム版画に擬した絵付という、「騙し絵」としての体裁は同一である。
 リアルで複雑な木目を描いたのは、カップがヤーコプ・ペーターでソーサーがヨーハン・ダッフィンガーである。この二人は前掲作ではそれぞれ風景画と木目の担当に分かれていたが、ここではダッフィンガーが木目の絵付役にまわり、花絵、風景画からトロンプ・ルーイの地文様までも描けるという多才ぶりを示している。
 カップの風景は「メリアン p.」とあり、ピクチャレスク風の立ち木と背を向けた二人の人物が描かれている。ソーサーには「g. クロス谷 No.1 M.O.S」とあり、近景には座った釣り人が一人と杖を持った旅人二人が背を向けて立ち、右端にオベリスクのような碑が描かれている。中景には「キ」の字形の二重十字架を立てたドーム式の聖堂が見える。
 本品の絵付師ヤーコプ・レスラーが、同様に黒絵の風景画を描いた作品が「アンティーク・カップ&ソウサー」p.14に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 






ウィーン 第三期
1784〜87年 染付で盾の窯印
造形:レオポルト・トロイトラー
風景絵付:ヨーハン・ダッフィンガー/木目絵付:ヤーコプ・ペーター 
コーヒー・カップ:H=47mm、D=52mm/ソーサー:D=110mm
 本品に見るようなデザインを「トロンプ・ルーイ(仏)=騙し絵」という。ここでは白木の板を三枚継ぎ合せた「壁」に、版画が貼られているかのように見える絵柄が描かれている。こうした版画の実物は、日本の浮世絵における街道道中図と同様に、複数枚がセットで出版・販売されており、本品のようなコーヒー・セットでは、各カップ、ソーサーやポット、プレートなどに、それぞれ柄違いの版画が多様にあしらわれていた。騙し絵である以上、版画の通し番号や風景の地名も記入されている。カップの風景画下には「ピンクス村 No.3」、ソーサーには「K. クンツ谷 A.M.S.」とあり、通し番号の数字部分は紙が破れたように描いてある。
 実風景ということが前提であるが、ピクチャレスク絵画の影響を受けて、カップにはこちらに背を向けて立つ二人のさすらい人が描かれ、ソーサー右下端には釣り糸を垂れる太公望二人が描かれている。画面の中央にはいかにも「都合が良い」立ち木が一本描かれており、これもピクチャレスクな風情を漂わせる一因となっている。
 第三期以降のウィーン窯では、絵付師が番号制度のもとで管理され、通常は必ず一人で作品の絵付を行うが、ここに見られる木目の加飾は特殊な技術の修練が必要で、グラデーション(ぼかし)を用いて年輪を描くのには高い集中力を必要とする。したがって絵付は版画部分と木目部分で、例外的に二人の絵付師が別々に担当している。
 風景画を描いたのはヨーハン・ダッフィンガーで、彼は第二期マーリア・テレージア時代に「ウィーンの薔薇絵」の基本様式を確立するといった重要な役割を果たし、絵付部門の大立物(おおだてもの)として勢力をふるった人物である。その後1770年代のチューリヒ窯に鳴り物入りで招かれてウィーン様式の絵付法を伝え、再びウィーン窯に戻って活躍した。
 近景を黒、遠景を灰色で表現したこのような版画風のモノクローム絵付のことを、美術用語としては「グリザイユ(仏)」といってもよい。
また本品とほぼ同様の「木目に版画」様式の騙し絵を描いた磁器は、ウィーン窯のほかにニンフェンブルク窯、フランスのニーデルヴィエ窯、ベルギーのトゥルネイ窯などでも製作されている。
 





ウィーン 第四期
1816〜17年 染付で盾の窯印
造型:マティアス・シュヴァイガー(キャン)/レオポルト・ヴィッツマン(ソーサー)
コーヒー・キャン:H=63mm、D=65mm/ソーサー:D=140mm
 本品はロシアの将軍でポーランドの一部を支配したイリンスキー伯ヨーゼフ・アウグストが、自領ポドーレにあったロマノフ宮殿用に発注した食器セットと全く同一の図柄が描かれている(「イリンスキー・サーヴィス」)。
 イリンスキー伯は19世紀初頭に宮殿の増改築事業を行い、領内の産業・文化を振興して経済と芸術の中心地になることを目指した。彼はオペラやバレエを積極的に上演させ、蒸気機関を備えた繊維工場を建設するなどの取り組みを行った。こうした経済・文化事業の一環として、新装成った宮殿のためにウィーン窯が納品したのが、草と小花文様のサーヴィスである。
 伯爵家用の食器セットは1815年前後に完成したと考えられており、本品は納品の直後である1816〜17年にかけて、共通のデザインで製造されたコーヒー・キャン&ソーサーである。鮮やかな黄緑・青緑・深緑で葦原を描き、下草として朱赤と青の小花を交互に配置している。
 現在「イリンスキー・サーヴィス」のうちの数点が、ポーランド・ワルシャワ国立博物館に収蔵展示されている。
 






ウィーン 第二期(帝立時代)
1783〜84年 染付で盾の窯印
造型:アントン・シェッツェル 絵付け:フランツ・マルクネヒト(カップ)
造型:マティアス・フェッヒェンベルガー 絵付け:レオポルト・トボーラ(ソーサー)
ティー・カップ:H=44mm、D=80mm/ソーサー:D=134mm
 本品は、ウィーン窯が弱体化から立ち直るきっかけとなった第三期・ゾルゲンタール時代(1784〜1805)の最初期か、第二期の最末期に製作されている。ハプスブルク家の当主で神聖ローマ皇帝だったヨーゼフ二世は、不採算となっていたウィーン窯を民間に売却しようとし、競売を催したが買い手が現れなかったため、リンツの富裕な羊毛織物業者でユダヤ人のコンラート・フォン・ゾルゲンタール男爵に出資させ、同時に窯の経営を委託することになった。
 ゾルゲンタールは造型師・絵付け師番号と製造年の記入を徹底させ、製品の質を高めることに努めた。同時期にやはり経営不振になっていたマイセン窯の立て直しを引き受けたカミーロ・マルコリーニ伯爵は、無彩色白磁を大量に販売して絵付けを窯外で行わせたり、他窯のコピー品を作らせたりするなどの経営戦略がはずれ、マイセン窯の価値は低下し、全く赤字の解消ができなかった。ゾルゲンタールは、これと正反対の高級路線を志向し、量産をせず、絵付けを施さない白磁は売らず、他窯の模倣作も製造しなかった。このおかげでウィーン窯第三期の作品は「世界最高の磁器」の名声を恣にしている。
 本品には造型師と絵付け師番号は完備しているが、製造年号がないため、ゾルゲンタール時代最初期以前の作品であると考えられる。表記の製造年代は各職人の在職期間から割り出している。カップの人形遊びをする女性が着る胸元が大きく開いたドレスや、ソーサーの男性のコートや帽子などに、フランス革命直前期の庶民の間で流行していた服飾デザインを見ることができる。
 本品は輝きのある濃い赤紫一色で描かれており、これはウィーン窯で「ドゥンケル・プルプル」(プルプル=ドイツ語でパープルのこと)と呼ばれる顔料である。ウィーン窯では紫系の顔料を十七種類使用している。赤紫〜紫〜青紫だけで十七色とは多い、と思われるかもしれないが、同窯の色絵は青系四十色、赤・茶系三十四色、緑系六十一色、黄系二十五色、白系七色、黒系十九色という多数の顔料を駆使して描かれており、紫系は他に比すれば少数派の顔料に属する。
 なお、英国のアンティーク商を中心として、紫〜赤紫色の顔料による絵付けを「ピュース」と呼ぶことがあるが、これは慣用的誤りなので、筆者は採用していない。「ピュース」とは一般に「褐色〜赤褐色」を表すが、磁器絵付けに関してはピンク色〜濃い紫までを一様に「ピュース」と称する乱暴な記述が英国には存在する。これは緯度の関係からフランス人やドイツ人よりも赤色系の判別に鈍感な英国人気質による(緯度が高くなるにつれて青色が鮮やかに見えるようになり、赤色は鈍くくすんで見えるという科学的な根拠。東京と大阪程度の緯度差でもはっきりした相違が認められる)、という説もある。紫色は明らかに赤褐色とは異なるので、普通に「パープル」と呼べばよい。
 






ウィーン 第四期
1822年 染付で盾の窯印
造型:アンドレアス・マイスナー(キャン)、ヨーハン・ヴィンクラー(ソーサー) 絵付け:フランツ・ガルトナー
コーヒー・キャン:H=62mm、D=63mm/ソーサー:D=133mm
 カップの造型がアンドレアス・マイスナー、ソーサーの造型がヨーハン・ヴィンクラーで、色絵付けがフランツ・ガルトナーという、ウィーン窯第四期の真正品である。ガルトナーの絵付けについては、このページには二回目の登場であり、既出の作品でも鑑賞することができる。
 本品は平易な造型のキャン型コーヒー・カップ&ソーサーに、パターン化されたポピーの連続文様が描かれている。口縁やハンドルに白抜きで金彩の塗り残し線を入れたり、文様をカップの上半分にだけ描くなど、ウィーン窯の伝統的様式に基づいた作例となっている。
 





ウィーン 第四期
1812年 染付で盾の窯印
造型:アントン・ラントスクロン 絵付け:カール・カストナー
ティー・カップ:H=46mm、D=75mm/ソーサー:D=138mm
 カップ本体には段差があり、ハンドルには小さな突起があるなど独特の造形に、画力に優れた存在感のあるスズランが、精密に描かれている。葉の上に花茎を置くモティーフの扱い方は後の時代まで影響を与え、19世紀末のフランスの染織工芸などでも、スズランによる本品と同様の連続文様が製品化されている。
 造型はアントン・ラントスクロンで、絵付けはカール・カストナーである。ラントスクロンの造型作品は「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.10とp.188に掲載がある。
 本品の造型年、1812年といえば、ナポレオンがいわゆる「冬将軍」に負けてモスクワから敗退し、失脚への一歩を踏み出した時期と重なるが、政治のみならず芸術の面でも、ナポレオン好みのアンピール(エンパイア)様式とは相いれない、庶民的で優しく柔らかい、しかしギリシア・ローマの建築物から採ったナポレオン様式に比すれば矮小な芸術=ビーダーマイヤー様式の萌芽が見てとれる。
 いずれにせよ、ウィーン窯の中興の祖ともいえるコンラート・フォン・ゾルゲンタール男爵(1805年没)が築き上げた第三期ウィーン窯(黄金時代)の終わりから十年もしないうちに、本品のように黄金時代とは異質の様式が現れたことになり、当時のウィーン窯の内部で急速な方針転換が起こっていたことを示す作品である。そのような意味づけを込め、この時代の象徴として「アンティーク・カップ&ソウサー」p.75に本品カップのみを登場させた。p.75から続けてp.79までを読み、作品を比較すれば、この時代の要求と食器芸術のありようが把握できるようになっているので、ご参照いただきたい。
 





ウィーン 第三〜四期(ゾルゲンタール時代〜)
1790年 染付で盾の窯印
造型:マティアス・シュヴァイガー 絵付け:フランツ・ガルトナー
コーヒー・カップ:H=59mm、D=70mm/ソーサー:D=133mm
 この作品は1790年に本焼成(白磁焼成)されたが、絵付けはしばらく後に行われて製品化されたものと思われる。このモールド(原型)はウィーン窯第三期ゾルゲンタール時代のものだが、次の第四期に入っても使用された。またこの形状の贋作が多いことでもよく知られる。造型はマティアス・シュヴァイガーで、絵付けはフランツ・ガルトナーである。シュヴァイガー造型の作品は「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.187に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 ここでガルトナーの描いた文様的性格の花絵のボーダーは、この後にやってくるビーダーマイヤー期のウィーン窯で好んで用いられたパターンである(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.90上、「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.188上)。
 





ウィーン 第二期(帝立時代)
1750〜70年 染付で盾の窯印
コーヒー・カップ:H=71mm、D=64mm/トランブルーズ:D=132mm
 ウィーン窯第二期の「帝立時代」に製作されたコーヒー・カップで、スタンドには洗練された造形のカップの倒れ止め・揺れ止めのトランブルーズ籠が大きく取りつけられている。このカップは細く、高台も小さいので、実際に倒れやすい。ここでは優れた籠のデサインが見られるが、実用に基づく考案であった。由来はフランスである。
 カップのシェイプは、第二期ウィーン窯の初期の頃にデザインされた古いものだが、作例はある程度残っている。花絵はウィーン窯の様式で、中心の薔薇絵の花弁の描き方や立体感がマイセン様式との相違をよく表している。ほとんど同じスタイルのよく似た絵付けが「アンティーク・カップ&ソウサー」p.13に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 

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