ロイヤル・クラウン・ダービー
1903年 商標登録された通常のロイヤル・クラウン・ダービー社の窯印
コーヒー・カップ:H=80mm、D=75mm/ソーサー:D=115mm
 染付部分と白地抜き部分に六分割され、中国風の文様が描かれている。白抜き部分には三種類の中国風花器に生けられた椿、牡丹、菊が大きく描かれている。花器は三種類とも把手付きで、半円形、長六角形、優勝カップ風のデザインになっている。
 染付部分には金彩でシルクロード経由のペルシア由来柄に似た、オリエント風の花唐草文が描かれている。
 ソーサー中央の井戸部分には三層のパゴダ(塔)と枝垂柳が描かれ、柳は幹が左にあり、枝の上部が画面から出て切れてしまい、垂れた枝下部が再び画面に入ってくる構図になっている。
 本品と同じ形状で、やはり三種類の異なる文様を描いた作品が、「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.136 に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 





ロイヤル・クラウン・ダービー
1902年 商標登録された通常のロイヤル・クラウン・ダービー社の窯印
ティー・カップ:H=44mm、D=89mm/ソーサー:D=136mm
 伊万里風のデザインで、櫛形(蒲鉾形)の染付・金彩文様を繋げた特徴的なボーダー柄が施されている。染付・金彩で三葉文(上下組み合わせで六葉に見える)と、左右非対称の笹竹がぐるりと取り巻く丸文が、それぞれ五つずつあしらわれている。この笹竹文は日本の工芸品にある図柄を模倣したものである。
 一部類似した図柄の作品が「アンティーク・カップ&ソウサー」p.136 に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 





ロイヤル・クラウン・ダービー
1903年 商標登録された通常のロイヤル・クラウン・ダービー社の窯印
コーヒー・カップ:H=58mm、D=61mm/ソーサー:D=112mm
 ロイヤル・クラウン・ダービー社は、ロイヤル・ウースター社の元筆頭株主エドワード・フィリップスと、元第二株主ウィリアム・リザーランドによって、1876年に設立された企業である。
 エドワード・フィリップスはスタッフォードシャーのハンレイで磁器製造やガラス事業を営んで財をなし、1862年のロイヤル・ウースター発足時からの大株主・社長であった。ウィリアム・リザーランドはリヴァプールの商人で、陶磁器やガラス類を扱っていた。彼はロイヤル・ウースターの第二株主であったが、フィリップスのシェアが25%だったのに対し、リザーランドのシェアは5%で、ロイヤル・ウースターは実質的には「フィリップス&Co.」といってもよいほど、筆頭株主フィリップスの財力と支配権が強かった。
 1874〜75年にかけて、ロイヤル・ウースターでは会社の資本関係の再編成と、それに伴う株主への臨時の高配当があった。1875年に配当金を受け取ったフィリップスとリザーランドは、手持ちのロイヤル・ウースター株を高値で売り抜け、手にした巨額の資金をもとに、ロイヤル・ウースターに対抗できる新興磁器企業を起ち上げようと画策した。
 その当時は、18世紀〜19世紀前半を彩ったイギリスの磁器工場のほとんどが姿を消していたが、18世紀以来続く大名跡を継承するロイヤル・ウースター社に匹敵する歴史と伝統を持った英国古窯は、ダービー窯とウェッジウッド窯の二つしか考えられなかった。このうちウェッジウッド社は会社が存続していたため、フィリップスは廃窯して二十五年余りが経つダービー窯の後継者を名乗ることを狙ったのである。
 フィリップスがダービー窯に目を付けたのは、1873年頃のこととされる。ダービー窯は1811年以来ロバート・ブルーアによって経営されていたが、ブルーアは陶工とは無関係の人物で、経営努力の結果、年中無休操業を達成するなどの成果を上げたものの、常に売り上げ不振と資金繰り悪化に悩まされ続けた。また彼は不幸にも精神疾患となり、ちょうどその頃イギリスで精神衛生法が改正され、身体障害者や精神病患者を保護施設に収容することが義務づけられた。そのためブルーアは1828年以降を精神病院で過ごし、ダービー窯に姿を見せることはなかった。
 この間ダービー窯はジェイムズ・トマソンが経営を指導したが、1844年頃からブルーアの娘夫婦が経営を肩代わりした。彼らは風前の灯火となったダービー窯を何とか救おうと奮闘したようだが、1846年に父ロバート・ブルーアが亡くなり、結局ダービー窯は1848年をもって閉窯となった。
 1873年はこの出来事から二十五年目にあたり、ダービー窯とブルーア一族が保有していた権利関係の多くが、この年に消滅したことをフィリップスは知っていた。そこで彼は1874〜75年にかけて、ロイヤル・ウースター社の抵当権見直しや増資などといった臨時議題を急遽持ち出して株価を操作し、ダービーに新会社を設立するための資金稼ぎをインサイダー的に行ったと思われる。
 こうして勇躍ダービーの地へ乗り込んできたフィリップスとリザーランドだったが、彼らの企みはそう簡単には実現しなかった。
 旧ダービー窯の職人のほとんどは、他窯に再就職してダービーを去っていったが、六家族だけがダービーの街に残り、キング・ストリートに小さい工場を構えて、旧ダービーの造形や絵柄を継承した製品を作っていた。後年にかけて社名はいろいろ変わるが、当初は「ロッカー&Co. レイト・ブルーア」と称した。この会社を通称「オールド・クラウン・ダービー」という。
 これら六家族とその子孫達は、フィリップスの計画に対して猛然と反発した。登記所の役人も親代々ダービー窯の職人達とは旧知の仲であり、よそ者のフィリップスには反感があり、社名や業務内容がオールド・クラウン・ダービーの権利を侵害するとして、会社の設立を認めることを渋った。フィリップスは脅し、すかし、接待、賄賂などあらゆる手段を講じて、懐柔への戦いに明け暮れた。その結果1876年に会社登記が認められ、オスマストン・ロードに工場を建設して「ダービー・クラウン・ポーセリン・カンパニー(ワークス)」という紛らわしい社名で、製磁事業がスタートした。この名称は「ウースター・ロイヤル・ポーセリン・カンパニー(ワークス)」への敵愾心を露わにしたものだが、同時に会社はキング・ストリートのオールド・クラウン・ダービーとも鋭く対立した。
 しかし対立の一方で、ダービー・クラウン・ポーセリンは、キング・ストリート工場に援助の申し出をする。これはキング・ストリート工場を取り込むことにより、18世紀以来続く真正ダービー窯の衣鉢を継ぐ者としての評価を手に入れたかったことと、その計画達成の障害となる他の企業による買収を未然に防ぐ目的があったためである。しかしキング・ストリート工場側の「フィリップス・ダービー」への嫌悪感には拭い難いものがあり、合併交渉はいつまでたっても進展しなかった。
 ダービー・クラウン・ポーセリンは設立までのドタバタがたたって、会社初動時の準備不足やミスが多く、登記上の設立は1876年だが、当初二年間の操業努力は空転した。結局商業ベースでの製磁が軌道に乗ったのは、1878年以降である。
 1889年、ダービー・クラウン・ポーセリンはロンドンに働きかけて、ヴィクトリア女王の行幸を勝ち取った。王室御用達となった同社はこれを記念するために、翌1890年の年明け早々に登記簿・定款を書き換え、社名を「ロイヤル・クラウン・ダービー」とした。これが現在まで使用されている名称の始まりである。
 それから四十年近い歳月が流れた1929年、アメリカのウォール街で起きた株価崩壊事件をきっかけとする大恐慌が、1930年にかけて世界中に波及した。ロイヤル・クラウン・ダービー社ではこの機会を逃さず、弱体化したキング・ストリートのオールド・クラウン・ダービーに対して買収攻勢をしかけた。しかし先祖代々反発の強い複数の大株主がいる間は、やはり計画は進まない。ようやく1935年になって、キング・ストリート工場の株主はハワード・パジェット一人となり、同年ロイヤル・クラウン・ダービー社はキング・ストリート工場を買収することに成功した。エドワード・フィリップスがロイヤル・ウースターを出てから六十年目のことである。
 今日ではロイヤル・クラウン・ダービー社を真正ダービー窯以来の伝統的企業だと考える学者は、ほんのひと握りしかいなくなった。1740年代の創業を主張する同社だが、これはあくまでも自称であり、ロイヤル・クラウン・ダービー社が1876年創業の比較的新しいメーカーであることは、ここに述べた同社の真実の歴史からも明らかである(「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.120、145参照)。

 この作品は鮮やかなサーモンピンクの地色にプリントによる金彩文様と手仕上げによる盛り金が施された豪華なコーヒーカップで、中央のパネル内には港湾風景図が描かれている。拡大写真の右下に、W.DEAN(W.E.J.ディーン)という絵付け師のサインが読み取れる。
 ディーンは1900〜20年代のロイヤル・クラウン・ダービー社で、ハーバート・グレゴリーやカスバート・グレスレイと並ぶ最高の絵付け師とされ、風景画の中でも特に帆船の絵を得意にしていた。
 本品はカップに小さい脚が四つ付いた面白い造形だが、これはさほど珍しい部類ではなく、ロイヤル・クラウン・ダービー社ではティーカップなどにも同一のデザインによる作例を多く製造している。
 

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