プリマス
1768〜70年 朱のエナメルで数字の「4」を図案化した窯印
ティー・カップ:H=63mm、D=78mm/ソーサー:D=125mm
 この作品は英国南西部のプリマスに、ウィリアム・クックワーズィー(1705〜1780)が起こした窯で焼かれた。クックワーズィーは英国で最初に真正硬質磁器(もしくは硬質磁器式の材土。特許には「ムーアストーン」と「グロウアン」の材土としてあり、「ハードペースト」や「ポーセリン」とはしていない)の特許出願を果たした窯業者である。しかし1768年にプリマス窯が取得した真正硬質磁器製造法の特許は、既に製品化に成功した後の届け出だった。窯の建設は1766年12月から行われていた上、クックワーズィーが高温に耐える窯の建て方などについての豊富な知識を持っていたために、製品は特許取得前から試行錯誤なくして完成し、市場に出ていたと考えられる。
 ウィリアム・クックワーズィーは薬種商だったが、1736年に出版されたイエズス会宣教師フランソワ・ザヴィエ・ダントルコル(d’Entrecolles、ド・アントルコル)の中国磁器製造報告書(1712年と22年に書かれた手紙)を目にし、1740年代には早くも磁器焼成に関心を抱いていたとされる。つば広の帽子に無地の服といった独特のいでたちと、古めかしく変わった言葉遣いで知られる「クエーカー教徒」であった彼は、イギリスの植民地だったアメリカのヴァージニア州から材土を輸入して磁器焼成の実験に使った。クエーカー教はイングランドで始まり、アメリカを主要な布教地としていたので、クックワーズィーは新大陸での宗教的コネクションを持つ知人を利用したものと見られ、ヴァージニア産の材土を扱う貿易商がクックワーズィーのもとを訪れ、直接交渉することができた。ところが結局アメリカの土では満足のゆく硬質磁器の完成には至らず、偶然にも彼に成功をもたらした材料は、自宅の玄関の階段周りの土だったという。
 その後クックワーズィーは、コーンウォール産のカオリン土を入手して材料に使うようになった。
 コーンウォールはイギリス最南西端の半島部分にある州である。プリマスはデヴォン州にあるが、コーンウォールとの州境に接する港町であり、プリマス湾を出てすぐ東の海岸線はデヴォン州、西の海岸線はコーンウォール州である。ちなみにイングランドから最初にアメリカ大陸を目指したメイフラワー号は、このプリマス港から清教徒を乗せて出発し、1620年マサチューセッツ州プリマス(地名はデヴォン州のプリマスに由来)に入植した。イングランドでも南西部のこの地方には、クエーカー教徒のほかにもプロテスタント信者の清教徒などが多く住んでいたのである。
 クックワーズィーのプリマス窯もまた、クエーカー教徒仲間で組織されていたが、特に有力な資金源となったのはトーマス・ピット(1737〜1793)だった。
 1746年、コーンウォール州トレゴンニング・ヒル近郊のグレート・ワーク鉱山に招かれて滞在したクックワーズィーは、鉱夫達が自宅の竈を鉱山の土で作った煉瓦で仕上げているのを見て、ここの粘土層が焼き物に向くことに気付いた。そこで彼はいくつかの採掘場を借りてはみたものの、トレゴンニング・ヒルの地層には黒雲母が多く含まれ、焼き物にすると黒斑が現れてしまった。そのためクックワーズィーは、セント・オーステル近くのセント・スティーヴンズ布教区にあったより良質のカオリン地層を使おうとし、そこの地主だったトーマス・ピットに協力を求めたのである。ピットは快くカオリン土と資金を提供し、プリマス窯の重要なメンバーとなった。
 トーマス・ピットはコーンウォール州ボコンノックを本拠とする大富豪で、芸術をこよなく愛し、後に初代のキャメルフォード男爵になった人物である。プリマスに隣接するコーンウォール州は、イングランドに属しながらも特殊な地方で、ケルト語系のコーニッシュ言語を伝えており、アーサー王伝説の舞台としても有名である。キャメルフォードはアーサー王の居城「キャメロット」の所在地として有力視されている土地でもある。
 そうした領域を有していたトーマス・ピットは、自らが結婚した1771年に、新婦アン・ウィルキンソンの伯父であるサー・リチャード・リッテルトン(リッテルトン家はトーマス・ピットの母方の実家でもある)を偲んで、123フィートもの巨大なオベリスクを建設 したことで知られ、その富裕ぶりが伺われる。
 大きさの比較として、エジプトのルクソール神殿からフランスに運ばれ、現在コンコルド広場に設置されている大きなオベリスクが74フィート(約22.5m)で、台座まで入れて計測しても107フィート(約32.6m)だし、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂前のオベリスクが83フィート(約25.3m)である。このことからしても、123フィート(約37.5m)の大オベリスクの建造には、ただならぬ費用を投じたことであろう。
 彼のこのような巨万の財産がいかにして形成されたかというと、ピットの曾祖父であるマドラス総督トーマス・ピット(1653〜1726)が、1701年にインドの商人から入手した410カラットものダイヤモンドの原石の話にさかのぼる。
 この「ピット・ダイヤモンド」は、英国に持ち帰られた後、ロンドンで足掛け三年がかりでクッション・ブリリアント型にカットされたが、出来上がりを待つ間トーマス・ピットは神経症となり、日夜変装して居所を転々と移したという。というのも、ダイヤの入手経緯に関する悪い噂が流れたことが、彼を悩ませる大きな原因となったためである。
 このダイヤは1698年に、インドのクリシュナ川のほとりにあるゴルコンダのパーティール鉱山で、現地の奴隷が発見した。彼は自分のふくらはぎを切り抉って、足の肉の中に原石を隠して逃亡し、貿易船の船長にダイヤの売り上げ金の山分けを提案して船にかくまってもらった。しかし船長はこの奴隷を殺してダイヤを奪い、遺体は海中に投じてしまった。ダイヤはインドの商人ジャムチャン(Jamchand)に売られ、それがピットの手に渡った。濡れ手で粟の大金を手にして浮かれた船長は、酒色や博打に身を持ち崩し、最後は破産して乞食同然となり、奴隷の呪いによって狂疾を発して自ら縊死した、というのが噂の概要である。
 ピットは苦悩を経験したためか、このようないわくつきのダイヤに執着せず、むしろ早く手放したいと考え、1717年、研磨の結果140.64カラット(28.1グラム)になった主石を持ち、長子ロバートなどを伴ってフランスのカレーを訪れた。このときピット親子を迎えたのは、スコットランド出身の高名な国際経済学者ジョン・ローであった。彼は1715年に決闘の罪でイギリスから追放され、フランスの摂政オルレアン公フィリープ二世を頼って宮廷に出入りしていた。翌1716年、ルイ十四世の放漫財政の結果膨らんだ借財から国家を救うため、オルレアン公の依頼によってフランスに初めて国営銀行を設立したのがジョン・ローである。
 このジョン・ローの仲介が効いて、主石は1717年にオルレアン公が十三万五千ポンドで買い上げた。研磨の時に出た副石数個は、帝政ロシアの始祖ピョートル大帝が、やはり高額で買い上げた。
 ピット・ダイヤモンドはオルレアン公の官職にちなんで「ル・レジャン(リージェント=摂政)」と名付けられ、1722年に王冠石(額の中央部)として製作された。この王冠は翌年、ルイ十五世の戴冠式に使われた。そして後にマリー・アントワネットの黒いヴェルヴェット帽を飾り、ナポレオンの執政刀の鐔の部分に取り付けられ、皇帝戴冠式では彼の儀丈剣の柄頭に輝いた。ナポレオン失脚後は彼の二番目の妻マリー・ルイーズが、実家であるウィーンのハプスブルク家に持ち帰ったが、彼女の父オーストリア皇帝フランツ二世のはからいで、ダイヤはフランスに返還された。その後ルイ十八世とシャルル十世の王冠や、第二帝政期にはナポレオン三世の帝冠にも飾られている。最後はナポレオン三世妃ユージニーの冠や装飾品に取り付けられ、第三共和政の成立で国家の財産となった。
 このような来歴を持つピットの「リージェント・ダイヤ」は、ルイ十五世の王冠などと共に、現在もルーヴル美術館に展示されている。
 トーマス・ピットは、主石の売価だけでも原石の買い値の6.6倍以上という莫大な利益をもとに、売却と同じ1717年にコーンウォールのボコンノックを買収し、ここを皮切りに、以降ブラドック、トレスキラード、ブランネルのコーンウォール州各地のほか、ドーセット、ウィルトシャー、ハンプシャー、バークシャー各州にも土地を獲得した。こうしてピットは、既に所有していたストラトフォードやブランドフォードの土地の他に、イングランド南西部を中心として繁栄の礎を固めた。
 彼の子孫・一族は金に物を言わせて、既に絶えていた貴族の名跡を買う目的で婚姻するなどして、それぞれ初代チャタム伯や初代ロンドンデリー伯に成り上がった。ピットの長男ロバートの長男ウィリアムが興した初代チャタム伯家からは、親子二代で英国首相となったウィリアム・ピット父子(親子同名)を輩出した。ロバートの次男トーマスはコーンウォール州ボコンノックを継承し、これがプリマス窯の出資者トーマス・ピット(後の初代キャメルフォード男爵)の父となった。またピットの次男トーマスは初代ロンドンデリー伯となり、ピットの次女ルーシーが嫁いでいたジェイムズ・スタンホープも、ダイヤを売った年に初代スタンホープ子爵となり、翌年に初代スタンホープ伯となった。全員が「初代」というところが成金恐るべし、である。
 クックワーズィーも、このように強力な資産家、ボコンノック本家のトーマス・ピットの庇護を得られたからこそ、コーンウォール産の良質なカオリン土を自由に入手できたのである。ただしトーマス・ピットが初代キャメルフォード男爵に叙せられるのは1784年なので、窯に出資していた当時は爵位を持っていない。
 その後キャメルフォード卿トーマス・ピットはコーンウォールを離れ、1793年にイタリアのフィレンツェで没した。しかも死因は贅沢病の痛風だったというから、まさに芸術と美食を極めた華やかな生涯を送ったことになるだろう。
 ところでプリマス窯の操業期間は三年ほどで終わり、1770年に窯はブリストルへ移転して閉窯する。これも実際には移転というより、ブリストルにおいても平行して硬質磁器焼成を成功させたクックワーズィーが、生産の統合を図ったと見る方が自然である。商業的にはあまり成功しなかったプリマス窯業が、他の出資者であるリチャード・チャンピオン達からの圧力に屈したとの学説もある。
 従ってプリマス窯とブリストル窯は経営者、材料、焼き方、原型、絵柄などが共通であるが、三年間しかなかったプリマス時代の作品は、現存数が少ないといえる。
 それにしても、プリマス窯の資金源が、ルーヴルでも名高い「リージェント・ダイヤ」の売上金に繋がっていたということは、大変面白いことだと思う。
 さて写真の作品であるが、カップのハンドルの特異な形状から「ロココ・モールド」に分類される極めて初期のタイプのデザインになっている。このハンドルは中国からの輸入品やそれを真似たマイセン窯を源流とした意匠で、チェルシー窯やウースター窯にも類似作がある。特に本品ではハンドルの右側と左側が異なる造形に仕上げられている。当然このデザインはプリマス窯とブリストル窯に共通であり、同じハンドルで碗部がより浅く広いタイプのティー・カップも作られた。本品はそれに比べるとカップの高さがあるが、同じく紅茶用と考えられる。
 絵柄もバリエーションによる若干の相違があるものの、プリマス、ブリストル両窯に共通かつ重要な要素を含んでおり、後にブリストル窯で簡略化して用いられた小花柄やリボン風のボーダーの先駆となる意匠が見てとれる。またワインレッドやはっきりした緑色の顔料は、プリマス窯で初めて開発されたものである。
 最後に窯印の図案と意味に関する話題を取り上げねばなるまい。
 本品にも書かれているプリマス窯の窯印は、アラビア数字の「2」の右下に「4」を組み合わせたようなデザインをしている。これは「2」とは関係なく「4」単独のアレンジで、錬金術で「錫(スズ、元素記号Sn)」を表す記号として用いられていた。
 錬金術師は、その研究内容が彼らの仲間内だけにしか解らないように、化学式や調合する物質などを特殊な暗号で記していた。錬金術には古代ギリシア・エジプト系と古代イスラム系の流派があり、中世の西洋錬金術にもいくつかの系統があったので、暗号は全てに共通するものではないが、このマークはおおむね錫(もしくは鋼)を示す記号として使われている。
 今日まで陶磁器関連の学者は一様に「プリマス窯のマークは錫を表すシンボル」と本に書いてきた。たしかにクックワーズィーが深い関係を持ったコーンウォール地方は、ローマ時代の昔から19世紀まで、英国最大の錫の産地であった(現在は多くが廃坑になっている)。王立の鉱山もあり、錫産業はこの地方の領主達を大いに潤してきた。このことが窯印に関する従来説を生んだ背景にありそうだと推測できる。しかし1740年代以来二十数年間の製磁研究を経て、ようやく英国初の硬質磁器焼成に漕ぎ着けたクックワーズィーが、自分の窯のために選んだ窯印がよりにもよってなぜ卑金属の「錫」なのか、納得のゆく説明はされてこなかった。コーンウォール地方の名物が錫鉱山だからといって、それを窯印にしたという類推は短絡的であり、妥当な理由付けになっているとは思えない。なぜならクックワーズィーは錫鉱山を掘って磁器用の粘土層を取り出していたわけではないし、真正硬質磁器窯業にとっても錫という金属はさほど重要な素材ではないからだ。だからこそプリマス窯のマークが持つ意味についての明快な根拠が示されてこなかったのであろう。それはこの記号が持つもう一つの重要な意味に、陶磁器学者の誰もが気付かなかったためである。
 中世(16〜17世紀)の西洋錬金術では、元素を司るのは天体であると考えられ、錬金術は天文学や占星術との深い関わりを持っていた。元素同士の融合や物質生成のヒントとして、天体の動きや性質を化学実験に生かそうとしたのである。そこで西洋錬金術では、既に15世紀頃から使われ始めていた天体記号のラテン意字を、元素記号にあてはめて用いた。それでは一体「錫」を示す暗号と共通のマークで表される天体は何かというと、それはジュピター=木星である。
 木星は太陽系最大の惑星で、その威容からギリシア神話の最高神ゼウスのローマ名「ユピテル(=ジュピター)」の呼称が与えられた。現在は太陽系の第五惑星だが、天動説の時代においては地球を惑星と数えなかったので、第四惑星とされていた。そこで数字の「4」のデザインを木星の記号としたのが、このマークの由来である。
 従ってこの窯印を「錫白釉」などにこじつけて考える必要はない。プリマス窯の窯印は「木星」の惑星記号として占星術や天文学で使われた「4」の図案であり、それをあてはめた錬金術記号の「錫」の意味ではないと考えるべきだ。
 占星術では木星は「発展・拡大・繁栄・成功」などの幸運をもたらす大吉星とされている。だからクックワーズィーは、プリマス窯業の発展と成功への願いを込めて、縁起がよい木星のマークを磁器の裏に書き入れたのである。
 織工の子として生まれ、1718年、13歳で父を失ったクックワーズィーの一家は貧しく、彼が薬種問屋に奉公に出るため故郷を離れる時には馬車に乗る金が全くなく、ロンドンまで320キロ以上もの長い道のりを、少年のか細い足で歩き通した。その後1720年のいわゆる「南海泡沫事件(ザ・サウス・シー・カンパニーの株暴落に端を発する投資相場崩壊事件で、多くの破産者や自殺者を出した。「サウス・シー・バブル」と呼ばれる。)」のあおりをくらい、彼の生家も資産のほとんどを失って極貧状態になったという。
 爾来五十年の苦節の末に、63歳で軌道に乗せたプリマス窯である。だとすれば、この小さな窯印に込められたクックワーズィーの祈りと希望が、木星の大きな姿となって、今なお我々の魂を揺さぶるではないか。ウィリアム・クックワーズィーの忍耐と努力の生涯を思う時、筆者の胸にはただただ畏敬の念が湧き上がるのみである。

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