ニヨン
1781〜1800年 染付手書きで魚の窯印
ティー・ボウル:H=46mm、D=83mm/ソーサー:D=133mm
 本品には三節から構成される二種類のアカンサス・スクロールが描かれ、それぞれの葉は部分ごとに色が違えられ、グラデーションによる陰影を施して精密に着彩されている。余白は金彩の細かい草文様で埋められ、ティー・ボウルの正面には薄いミント・ブルー地に黄色でネオ・クラシック風の花瓶をデザインしたメダイヨンが描かれている。
 白磁はニヨン窯では最高級の品質で、光に翳さなくても裏の窯印が透けて見えるほど薄く仕上がっている。
 





ニヨン
1781〜1800年 染付手書きで魚の窯印
ティー・ボウル:H=49mm、D=85mm/ソーサー:D=135mm
 この絵柄は矢車菊(コーンフラワー)をデザイン化した意匠で、パリのボンディ通りにあった「アングレーム公爵の工房(ディール・エ・ゲラール)」で初めて描かれた。そのため「アングレーム・パターン」と通称され、ルイ十六世妃マリー・アントワネットに好まれたと伝えられている。ニヨン窯ではパリ窯業群の影響を受けたこのような絵柄で、多くの磁器作品を製造している。
 矢車菊のパターンでは本品の赤紫色の他に、青色の花の絵付けも行われた。本品の形状はやや腰高で、このタイプのティー・ボウルには浅型のソーサーが組み合わせられる。
 ニヨン窯の作品で、本品と絵柄は同じだがサイズがやや小振りのティー・ボウル&ソーサーが、「アンティーク・カップ&ソウサー」p.29に掲載してあるので、ご参照いただきたい。
 






ニヨン
1781〜1800年 染付手書きで魚の窯印
ティー・ボウル:H=44mm、D=78mm/ソーサー:D=135mm
 ニヨン窯の絵付け師は、現在三十人の名前が知られている。この中には創業者であるジャック・ドルトゥとフェルディナント・カール・ミュラーという、義理の親子(ドルトゥはミュラーの女婿)も含まれる。
 ドルトゥはベルリン窯で絵付けを学び、その後カッセル、アンスバハ、サンクト・ペテルスブルクでは絵付け職人として雇われたとみられる。一方フランケンタール窯の絵付け師だったミュラーは、トゥルネイ、サンクト・ペテルスブルク、と渡り歩く間にロシアでドルトゥと知り合い、以後はポンタン、トゥルネイ(二回目)、リーユ、ニンフェンブルク、コペンハーゲン、ポンタン(二回目)、マンハイム、カポ・ディ・モンテを歴訪し、ニヨンにやってきた。ポンタン以降の各窯における在職期間が短いので、職人としてではなく、絵付けの指導者として招かれたと考えられる。
 この二人はニヨン窯創業から五年目の1786年に、出資金あるいは配当金を巡って争いを起こし、ドルトゥはミュラーの娘である妻と二人の息子をニヨンに残したまま、故郷のベルリンに帰ってしまった。ニヨン窯は地元で磁器作品を売っていたわけではなく、スイス領内ではジュネーヴ、ベルン、チューリヒ、ローザンヌに販路を持っていた。そしてニヨンの街における工場の経営状態は芳しくなく、ミュラーは窯のジュネーヴ移転を主張していた。
 しかしミュラーの意見は、ニヨンの名士であった窯の関係者達には受け入れがたいもので、彼らは株主総会を開いてミュラーを窯から追い出してしまった。このときミュラーの息子で、当時十六歳だったジャック・ミュラーは、母と共にニヨン窯に残り、父フェルディナントと袂を分かった。ミュラーは家族を捨てて単身ジュネーヴへ移り、この後も各地の窯への遍歴を続けた。翌1787年、ミュラーがいなくなったニヨン窯に、ベルリンから呼び戻されたジャック・ドルトゥがやってきた。ジャック・ミュラーは姉の夫にあたるドルトゥに弟子入りし、ニヨン窯の絵付け師に成長するとともに、株主として経営にも参加するようになった。ジャック・ミュラーは父とドルトゥがサンクト・ペテルスブルク窯に在職していた時代に生まれ、ドルトゥの名前「ジャック」をもらっている。幼少時代からドルトゥに可愛がられて育ち、彼に傾倒していたとみられる。
 一方ドルトゥの二人の息子も、やはり絵付け師になっている。長男フェルディナント・ドルトゥはニヨン窯の絵付け師となり、その後はスイス国境に近い北イタリアのトリノへ行き、現地でヴィノーヴォ窯の絵付け師となった。彼は母方の祖父にあたるフェルディナント・カール・ミュラーから名前をもらっている。次男フレデリック・ドルトゥは、1813年にニヨン窯が磁器製造を終えると、父と共にカルージュへ行き、父ジャックが建てたファイアンス工場の絵付け師となった。その後はロシアを経て、セーヴル窯に雇われている。

 本品の絵柄は、ニヨン窯で最も長きにわたって描かれ続けたパターンの一つである。青一色で薔薇を中心とするボーダーバンドを描く「カマイユ・ブリュ」は、ヴァンサンヌ=セーヴル窯の影響を受けた古い技法である。また金彩のフェストゥーンと小花散らし柄は、セーブル窯第一ロココ時代第二期装飾で、ルイ十六世妃マリー・アントワネットの好みが反映されている。このような時代背景によって、1780年代前半からニヨン窯で採用されたこのデザインであるが、19世紀に入ってナポレオン時代となり、装飾様式が変化した後になっても、この絵柄は描かれ続けた。したがってロココ様式の形状作品にも、アンピール(エンパイア)様式の形状作品にも、同様にこの古い図柄を用いた加飾が行われている。
 薔薇絵の背景部分に用いられた金砂子は「サブレ・ドール」と呼ばれ、セーヴル窯に由来する地文様金彩である。この金彩デザインはさまざまな窯で模倣されたが、フランス磁器を積極的にコピーしたロンドンの絵付け専門工房で、コールポート製やスウォンジー製の白磁に施されたサブレ・ドールがよく知られる。
 ニヨン窯のティー・ボウルには、とりわけ平たい造形の作品が多く、本品もボウル高は44mmしかない。このように背が低いボウルには、ボウルが埋まるような深型のソーサーを添わせるのがニヨン窯のならわしで、逆に背が高いボウルには浅型のソーサーをあてがっている。
 





ニヨン
1781〜1813年 染付手書きで魚の窯印
ティー・ボウル:H=48mm、D=80mm/ソーサー:D=138mm(パンジーとバラ)
ティー・ボウル:H=45mm、D=83mm/ソーサー:D=135mm(バラ)
 スイスのニヨン窯は、レマン湖のほとりの小さな町ニヨンに建てられた。事業は、ベルリン窯で徒弟時代に製磁法を身に付けたヨハン・ヤーコプ・ドルトゥと、その舅でフランケンタール窯の絵付け師だったフェルディナント・カール・ミュラーによって、1781年に始められた。
 ドルトゥはフランス系移民の子として、1749年ベルリンに生まれた。一家はもともとシャンパーニュ地方ヴュー・ダンピエールに暮らしていたが、宗教上の理由(プロテスタントのユグノー派を信仰)から祖父の代にフランスを離れ、ベルリンへとやってきた。フランス系ドイツ人であるドルトゥの名前は「ジャン・ジャック」であるが、ドイツ風に「ヨハン・ヤーコプ」とし、普段は「ヤーコプ・ドルトゥ」と名乗った。後年フランス語圏のニヨンに入り、「ジャック・ドルトゥ」とした。
 ドルトゥは1764年9月、十五歳でベルリン窯の徒弟となり、三年に満たない1767年6月に、カッセルへ出奔した。このとき彼は、既に製磁の秘法を身につけていたとみられる。
 当時のベルリン窯は、フリードリヒ二世(大王)が、ヨハン・エルンスト・ゴッツコウスキーから1763年に工場を買い上げ、王立窯になったばかりの時期であった。その製磁秘法の管理は厳しく、親方ならぬ徒弟の身分では、硬質磁器の材料配分法などを知るよしもなかった。したがってドルトゥは、何らかの手段で秘法を盗み出したことになる。
 カッセルにひと月の滞在の後、ドルトゥはアンスバハ窯で絵付け師の職を得た。1768年までこの窯に留った後ロシアへ旅立ち、1769〜70年にかけてサンクト・ペテルスブルク窯で働いた。この地でドルトゥは、後に義父となるフェルディナント・カール・ミュラーと出会った。1773年、二人は連れ立ってフランスに移動し、ポンタン・レ・フォルジュの窯に雇われたが、これ以降ニヨンで合流するまで行動を別にする。
 ドルトゥはポンタン・レ・フォルジュを短期で去り、1773年、マルセイユにあったガスパール・ロベールのファイアンス窯で真正硬質磁器を焼いた。1777年にフランスを発ってスウェーデンへ行き、ストラルサンドを経てマリーベルク窯に到着した。マリーベルク窯はファイアンスの他にフリット軟質磁器を焼いていたが、ドルトゥはここでも真正硬質磁器を作った。やがて故郷のベルリンに戻って滞在の後、1781年3月、ニヨンへ移動した。
 ミュラーはポンタンでドルトゥと別れた後、1774年にリーユへ行き、ベルギーのトゥルネイ窯を経て、1775年にはバイエルンのニンフェンブルク窯に雇われたとみられる。1778年にデンマークのコペンハーゲン窯に入ったが、1779年に再びポンタンに戻り、この地で後にニヨン窯の経営者となるジャン・ジョルジュ・ジュール(ヨハン・ゲオルク・ユリウス)・ツィンケルナーゲルと知り合った。ツィンケルナーゲルはフュルステンベルク窯に徒弟として入窯して製磁技術を修得し、この年からポンタン・レ・フォルジュで磁器を焼き始めた。ミュラーは絵付け技術の指導などの目的で招聘されたとみられる。ミュラーは翌1780年にドイツ圏のマンハイム窯へ旅立ち、やがてイタリアへ南下してナポリのカポ・ディ・モンテ窯に入った後、1781年、ドルトゥと共にニヨンに落ち着いた。
 ニヨン窯は同地のド・ラ・コロンビエール通りに建設され、製磁・加飾ともにドルトゥの知識と技術で製作が進められた。しかし五年後の1786年、ドルトゥは舅のミュラーと窯の経営問題(金銭関係)に関する諍いを起こした末、ニヨン窯を飛び出して旧地カッセル窯にしばらく逗留した後、故郷のベルリンへ帰った。ニヨンに残ったミュラーは、窯の製磁技術をジュネーヴに移転しようとしたため、ニヨン窯のスタッフの怒りを買い、工場には不和と対立が巻き起こった。ニヨン窯は株式会社経営だったため、1787年、株主合議の末にミュラーを窯から除名して追放処分とした。
  1787年6月、ミュラー放逐の報を受けて、ドルトゥはニヨンに戻った。新体制のニヨン窯で筆頭株主になったのが、前述のジャン・ジョルジュ・ジュール・ツィンケルナーゲルである。間もなくツィンケルナーゲルは、古巣のフュルステンベルク窯があるヴォルフェンビュッテルへ向かうため、1788年に株を売却してニヨンを去り、会社はドルトゥの他にモイーズ・ボナールとアントワーヌ・アンリ・ヴェレが新たに株主となって経営にあたった。この時に獲得した資金をもとに、同年より生産規模の拡大を企図して新工場を建設し、翌1789年より稼働を始めた。
 ニヨン窯の作風は、セーヴル窯第一ロココ時代第二期装飾のスタイルで、特にマリー・アントワネットの好みを反映した小花散らしや花綱などのデザインを多用した。またパリの窯業者が好んだアンピール様式の人物画なども多く手がけた。一方風景画では、同じスイス圏にあったチューリヒ窯から絵付け師を招き、チューリヒ窯のスタイルでドイツ・ウィーン様式の絵付けを行った。
 ニヨン窯の素磁は、ドルトゥが秘法を盗んだベルリン窯式の真正硬質白磁で、フリット軟質磁器ではない。材料には主にリモージュ産のカオリンを使用した。
 18世紀末にはナポレオンの台頭と戦争の激化により、経済的環境や磁器の販路がめまぐるしく変化し、1800年代に入ると焼き物の主役は、パリ窯業群と、それらが作るネオ・クラシック様式にすっかり取って代わられてしまった。ドイツの王立窯と同様に、ニヨン窯でも製品の売り上げは徐々に低下し、パリ風のスタイルを模倣するより他に打つ手がなくなっていった。そこで1813年、ニヨン窯は製磁を断念し、以降は焼き物用の白土を精製・販売する業態に切り替えた。
 ドルトゥは同1813年、製磁の終焉とともにニヨンを離れ、ジュネーヴ近郊のカルージュにファイアンス工場を作った。ここでファイアンスを焼くこと六年にして、1819年、同地で亡くなった。七十年の生涯を土と火に捧げた人生だった。
 一方ニヨンを追われたミュラーには、1808年にニンフェンブルク窯で雇われたという記録が残っている。彼は1727年生まれとされるので、この時八十一歳の老齢にも拘らず、職にありついていたということになる。 ドルトゥとミュラーという女婿と舅の人生を顧れば、この二人は共に行動派であり、進取開拓のエネルギーに満ちていたといえよう。馬車の時代にロシアや北欧まで旅をしたことを始め、ドルトゥが各地で何度も硬質磁器を焼いてみせたのも、ミュラーがヨーロッパ中を渡り歩いて絵付けを指導し、また強引な手法で窯のジュネーヴ移転を試みたのも、およそこのような二人の気質が反映している。会って別れ、再び会ってまた別れたドルトゥとミュラーは、技術を武器に自分に賭け、また自分に挑戦することで次の一歩を踏み出してゆくという、お互いに共通する性格に惚れながらも、譲歩しながら二人で共に進むことは認められなかったということだ。

 ここに掲載した作品は、どちらもティー・ボウル&ソーサーであるが、薔薇絵のボウルは特に背が低く、腰が張った造形になっている。パンジーが描かれたものは高台にかけてすぼまる腰高のシェイプである。ソーサーも薔薇絵は深く曲面的で、パンジーは浅い平面的なモールドが用いられ、ボウルの形状に合わせた組み合わせになっている(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.29参照)。
 「ニヨン窯」というと、本品のような小花散らしのデザインが多いと思われがちだが、人物画と風景画も非常に多く、またセーヴル写しの精密で豪華な色絵にも見事な作風が示されている。現在、同地のニヨン城が磁器収蔵館になっており、この窯の優れた作品を多数展示している。

 

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