ニューホール
1800〜10年
ティー・カップ:H=83、D=57mm/ソーサー:D=131mm
 本品は硬質陶器などに用いられた銅版転写染付による絵柄にもとづいて、ニューホール窯が手描きで仕上げた硬質磁器製のカップ&ソーサーである。絵柄は1800〜20年代にジョン&ジョージ・ロジャーズ窯で作られていたデザインを、ほぼ忠実にコピーしている。ただし、ロジャーズ窯の作品は転写銅版を用いた精密なプリント染付であり、整った画面構成が特徴である。ロジャーズ窯の絵では象の皮膚感や体の陰影に自然なリアリティーがあり、象のすぐ左側には象使いが描かれるが、ニューホール窯の手描き作品ではこの人物は省略されている。その他の部分(建物、樹木、山)はロジャーズとの共通性が強い。手前のフェンス風の柵はニューホール窯の創意である。
 ニューホール窯はウェッジウッド窯やミントン窯、ロジャーズ窯、アダムズ窯などと共に、「ポターズ・クレイ・カンパニー」や「ヘンドラ・カンパニー」といった材土供給会社に株主として資本参加しており、これらの友好企業間では絵柄やデザインでも共通の焼き物が作られていた。本品はそのことを示す例として重要な作品である。
 またニューホール窯では、このインド風のシノワズリの類似作を数種類の意匠で作っており、よく似た建物や樹木を配置して、横たわる縞模様のベンガル虎を描いたり、二頭の鹿をあしらったりしている。さらに本品とは逆に象を左側に配して鼻を右向きに変え、建物二軒のデザインから樹木の形態までを全部変更した類似作も作っており、本品がロジャーズ窯のデザインとほぼ同一の絵柄であることから、類似作の方は発展的意匠であると考えられる。
 






ニューホール
1800〜10年
ティー・カップ:H=58mm、D=84mm/ソーサー:D=137mm
 本品はインド風の生命樹とレンガ造りのやはりインド風の建物をモティーフとしたシノワズリで、口縁周囲の金彩文様に様々なバリエーションがあることで知られる。金彩ボーダー飾りの僅かなデザインの違いで、それぞれ異なるパターン・ナンバーを与えられている。本品に見られる金彩デザインは新しく発見されたもので、現在この意匠に該当するパターン・ナンバーは知られていない。
 カップの形状はリング・ハンドル付きのビュート・シェイプで、灰青色の硬質磁器で作られている。
 







ニューホール
1815〜25年
ティー・カップ:H=60mm、D=78mm/ソーサー:D=145mm
 本品はロンドン・シェイプのヴァリエーションに該当する形状で、カップの外側とソーサーの内側に、編み上げたバスケットを模した籠目文様がエンボス(レリーフ状装飾)で表現されている。ハンドルはドレスデン(Jシェイプ)・ハンドルで、下端にアウター・スパーの突起が付いている。
 このような発展型ロンドン・シェイプであることから、この形状のニューホール製カップ&ソーサーは、1820年以降にボーンチャイナで製作されたというのが定説になっている。ところが本品は、乳白色で透光性が低いニューホール窯のボーンチャイナではなく、灰青色の釉薬がかけられた硬質磁器(あるいはハイブリッド・ハード・ペースト磁器)でできている。ニューホール窯では1814〜15年以降は硬質磁器を製造していないことになっているが、このカップ&ソーサーは従来の説に疑義を呈する作例といえる。
 色絵は多色を用いて明るく華やかな花絵が描かれている。それぞれの花はあえて実在性を弱めてデザイン性を重視しており、花と葉全てにグラデーションによる陰影を与え、リズミカルな構成になっている。
 本品にはコーヒー・カップが添っており、トリオのセットになっている。
 





ニューホール
1800〜05年
ティー・カップ:H=58mm、D=84mm/ソーサー:D=139mm
 本品は薄い灰青色の硬質磁器製で、染付による紺色地の上に豪華な金彩文様が施されている。図柄は、カップ、ソーサーともに四つの唐草文様で構成され、スクロール・エンドには六弁の花文様が描かれている。
 ニューホール窯では、中国写しや小花散らしの色絵ティー・ボウルと比較した場合、本品のように金彩のみの仕上げで色絵がないカップの方が、二〜三倍も高価に販売されていたことがわかっている。稚拙な色絵の量産雑器は子供達が作っていたのに対し、立派な金彩仕上げの作品は、親方職人の中でもアーティスト級の人々が手がけていたためだと考えられている。
 






ニューホール
1800〜05年
ティー・カップ:H=59mm、D=84mm/ソーサー:D=138mm
 本品は滑らかな釉薬がかかった灰青白色の硬質磁器製で、リング・ハンドル付きのビュート・シェイプのカップに、深型のソーサーが添っている。
 波形に白抜きされた染付による紺色地の上に、金彩で葉枝文様が散らされている。放射状に波打つこのような染付図柄は中国磁器に由来するデザインで、ロウストフト窯の創業者であるロバート・ブラウンが、自らのために作らせたというティー・セットにちなんで「ロバート・ブラウン・パターン」としても知られる。ただし本品では、金彩で葉文様を散らしたことにより、東洋磁器の雰囲気を意識させないような仕上がりになっている。
 





ニューホール
1812〜14年
ティー・カップ:H=50mm、D=87mm/ソーサー:D=135mm
 本品は青灰色がかった硬質磁器で製造され、ニューホール社が素磁をボーンチャイナに切り替える直前の作品である。
 薄い染付による水色のボーダー・バンドには刷毛目によるムラがあり、上に金彩で草文様があしらわれている。紫色と朱色の組み合わせで様式化された花文様を繋いだ図柄が描かれているが、この絵付けの茎の部分は極細の絵筆で繊細かつ正確に描かれている。
 カップ外側は大部分に白地が残され、口縁部にS字繋ぎのデザインが金彩で施されている。
 本品にはコーヒー・カップが添っており、トリオのセットになっている。
 





ニューホール
1812〜15年
ティー・カップ:H=57mm、D=88mm、コーヒー・カップ:H=61mm、D=72mm/ソーサー:D=130mm
 本品はニューホール窯が1812年からボーンチャイナの導入に向けての研究を開始し、1814年には概ね製品化に成功した時期に製造された、硬質磁器製のロンドン・シェイプのカップ&ソーサーである。同窯では1815年以降は硬質磁器を焼かなかったとされるので、この作品は英国最後の硬質磁器製品の作例の一つと言うことができる。1812〜15年にかけてのニューホール窯は、このような従来型硬質磁器を作りながら、平行してボーンチャイナの焼成実験も行うという製造ラインの過渡期にあたり、また経営者のピーター・ウォーバートンが1813年に急死するという出来事があり、会社運営の大きな転換期でもあった。
 本品は、淡いブルーの地色枠に、人物風景画、多種の花束絵という、当時としては最も高価な部類の絵付けが施された上、1810年代前半の英国作品としては極めて異例の盛金(レイズド・ゴールド)で装飾されている。
 人物画は無地の服とつばのある帽子が特徴の、クエーカー教徒の姿を描いたもので、農作業などの情景がモティーフとなっている。ティー・カップには後ろ向きでそれぞれに籠を携えた青と赤の服の男女、コーヒー・カップには麦の束を抱えた男と白いコートで杖を持った男の旅人、ソーサーには頭に籠を乗せた女と重そうな袋を背負う女、杖をついた旅の男が描かれている。いずれも野原や山、立ち木などの背景が、遠近感を付けて描かれており、画面に奥行きを感じる。
 花絵は人物風景画とは別の絵師が分業で描いたもので、黄色やピンクの薔薇や芥子、勿忘草や釣鐘草などが熟達した筆で描かれており、この花絵の巧みさは親方クラスの職人の手になるものと考えられる。カップとソーサーの見込み部分にも花束が描かれている。
 金彩はカップの外側に見られるのと同じS字つなぎの波文が、内側では人物画の額縁に盛金で施され、花絵の額縁には大小交互のドット文が、やはり盛金であしらわれている。このような額縁部分の金彩に、文様がチカチカと輝く仕上げがあることは、色絵を一層豪華に引き立たせるために一役買っている。盛金(盛り上げ金彩)とは、膠や松脂など粘性の高い溶媒で金を練り溶いて、高く盛り上げた状態で焼き付ける技法で、ヘンリー・ダニエルが1802年にスポード窯で完成している。
 トリオのセット一客あたり、人物画が全て絵変わりで七面、花絵が十面描かれた上に、盛金彩が施してあるとなれば、ティー・セット全体では相当高額で販売されたものと推定される。このように贅沢な色絵と手の込んだ盛金で加飾されたニューホール窯製品があったということは大きな驚きであると共に、本品は「ニューホール窯=日用食器メーカー」という概念が誤りであることを示す貴重な証拠資料ということができる。
 




ニューホール
1815〜25年
ティー・カップ:H=61mm、D=82mm/ソーサー:D=140mm
 後期ニューホール窯の初期に製造されたボーンチャイナで、白く滑らかな釉薬がたっぷりとかけられている。質感はジョン・ローズ・コールポートが1820年に発表した無鉛長石釉磁器とよく似ているが、磁胎は重く、ティー・カップが111g、ソーサーが151gとなっている。同一の形状でも1820年代になるとボーンチャイナが重くなるのはスポード社にも見られる傾向である。
 ここに見るロンドン・シェイプは口縁の開きが小さく、筒形に近いカップの形状をとっている。ハンドルの造形は大変鋭い仕上がりになっている。カップの内外に色絵で薔薇の連花と葉、金彩で茎と飾りの葉が巡らされた華やかなボーダーが描かれている。
 本品にはコーヒー・カップが添っており、トリオのセットになっている。
 




ニューホール
1795〜1805年
ティー・カップ:H=50mm、D=82mm/ソーサー:D=141mm
 非常に薄い造りのカップ&ソーサーで、光はほぼ無色に透け、図柄も通常の室内光で透けて見えるほどである。伊万里風の色使いで、松笠のようなオレンジの花とデザイン化された菊か撫子のような花絵が華やかに描かれ、明暗を対比させた緑色の葉が軽妙な印象を与える作品である。釉薬はやや灰色がかっている。
 この図柄にも多くの模造品がある。花のデザインのバランスが悪かったり、絵付けが粗雑だったり、全体に薄い色合いの仕上がりだったり、ニューホール窯以外の作品にはそれぞれの特徴があるが、それを見極められないうちは、本品と同じ図柄だからといって、即座に「ニューホールだ」と決めつけてはいけない。
 




ニューホール
1795〜1805年
ティー・カップ:H=49mm、D=83mm/ソーサー:D=140mm
 本品はリング・ハンドルが付いたビュート・シェイプの硬質磁器製カップである。絵柄は成人の中国人男女と、蝶に向かって手を差しのべる子供が描かれており、通称「蝶を追う少年のパターン」と呼ばれている。絵柄の外線はグレーのプリントで絵付けされ、色は手描きで施されている。この意匠に類似したものも、スタッフォードシャー地方の様々な窯で製造されている。
 




ニューホール
1787〜95年
ティー・ボウル:H=46mm、D=83mm/ソーサー:D=130mm

 ニューホール窯は1781〜82年にかけての間に、スタッフォードシャー地方のシェルトンで創業した、プリマス−ブリストル式の真正硬質磁器メーカーである。ニューホール窯は日用食器専門の窯業者だったと見られがちだが、実際には高度な絵付けで優れた名品も残した。それらは使用するのがもったいないほどの素晴らしい仕上がりであり、高級品の多くが使用を逃れてキャビネット・ピースとして鑑賞されたため、今日まで良好な保存状態で伝わっている。ただし作品の中心はティー・ウエアとディナー、デザート・サーヴィスであり、壺や花瓶、人形などの作例がほとんどないのは事実である。このことから「ニューホール=日用品」という従来の概念が出来上がった。
 ニューホール窯で優れた絵付けを行った人物に、フィデル・デュヴィヴィエがいる。実はニューホール窯の絵付け師で現在名前が判っているのは、このデュヴィヴィエだけしかいない。デュヴィヴィエは1740年、ベルギーのトゥールネ(トゥルネイ)出身で、英国に渡って1769〜73年にかけて、ウィリアム・デュズベリのダービー窯で絵付け師として在職した。この時期に平行して、ロンドンで独立系の絵付け工房も主宰していた。ロンドンではウースター窯製の白磁などに絵付けを行った。1787〜90年までがニューホールでの雇用期間であるが、週三日程度のパート・タイム出勤だった。絵付けの他に後進の指導にも当たっていた。したがってダービー窯とロンドンで同時期の絵付けが存在する理由も、おそらくこのような自由な勤務形態の契約を結んでいたからではないかと考えられる。
 ジョサイア・ウェッジウッド一世時代のウェッジウッド窯に、ニューホール窯が1789年に発行した請求書(おそらく販売用の絵柄見本としてウェッジウッドが買ったもの)が残されている。これは非常に有名な資料であり、ウェッジウッド社はニューホール窯など他業者から完成品を仕入れ、約2〜3倍程度の値段をつけて自社の小売りショップで販売していたと見られている。この1789年の請求書には、六通りの全て異なる絵変わりで、エナメル色絵付けのカップ&ソーサーが六客で6シリング、白磁に金彩のみのカップ&ソーサーが一客で2シリング5ペンス、という記載がある。色絵のカップが一客あたり1シリングであるのに対し、金彩装飾だけの白磁のカップが 2.5倍もの高値で販売されていることについてジェフリー・ゴッデンは、色絵の六客は経験不足の少年が描いたもので、金彩はフィデル・デュヴィヴィエのような熟練工の仕事、と述べている。当時は六歳前後で工場に入ってくる子供達が粗雑な量産品を作っており、色絵や金彩の職人で将来親方になるような有望株は、十五歳前後で親方の徒弟として工房に弟子入りしてきた。さらにゴッデンは、この金彩のカップはシンプルなものではなく豪華なものだったとし、「職人」ではなく「アーティスツ」という言葉で作者を表現している。ニューホール窯の研究・著作で知られるデイヴィッド・ホルゲイトも、高価なカップ&ソーサーの売価が書き込まれたこの請求書から読み解かれる事実として、1780年代後半から1790年代にかけて、より高度に変化したニューホール窯の絵付けに対する、フィデル・デュヴィヴィエの参入が与えた影響を挙げている。
 ダービー窯やロンドンで、一流の絵付け師として通用したデュヴィヴィエの作風は、大陸風の風景画、人物画、花絵、鳥絵から、ラ・フォンテーヌ寓話を題材とする戯画まで多岐に渡り、そのいずれもが存在感溢れる上質な画風で描かれている。このデュヴィヴィエがどのようないきさつと縁故でニューホール窯と関係を持ったかはわかっていない。しかし彼が残した手紙は、極めて大きな示唆に富んでおり、研究の手助けになっている。
 例えばニューホール窯がいつ頃から「ニューホール」と呼ばれるようになったのか、今日なお判明していないが、最古の資料と目されるのがデュヴィヴィエの手紙である。1790年、デュヴィヴィエがニューホール窯を去る年に、ダービー窯のウィリアム・デュズベリに宛てた手紙の中に「New Hal(lが一つ)」という記述がある。しかしおそらく、窯は一般に「ニューホール」として通用していたのではなく、ホリンズ、ウォーバートン&Co. と称していたと見られている。このように不明な点が多いニューホール窯の創立から廃窯までの経緯について、まとめておこう。
 ニューホール窯は前述の通り、イギリスの歴史上で三カ所しかない真正硬質磁器の製造窯の一つとされる。そもそもイギリスにおける真正硬質磁器窯業は、プリマス窯を興したウィリアム・クックワーズィーが、1768年3月17日に取得した特許に始まる。プリマス窯は1770年にはブリストルに移転し、硬質磁器に関する特許は、窯の共同経営者・出資者で、クックワーズィーとはクエーカー教徒仲間であったリチャード・チャンピオン(1743〜91)によって、1774年に買い取られた。
 チャンピオンは優秀な事業家であったが、科学者でも陶工でもなかった。窯業に関しては当初は門外漢同然だったと見られるが、次第に科学的知識を深めていったようだ。
 コーンウォールのカオリン鉱山は、1768年にクックワーズィーと地元の領主トーマス・ピットの間でリース契約が結ばれ、1770年には九十九年間のリース権をピットから認めてもらっていた。初期の頃は良好だったプリマス−ブリストル窯とピット一族との関係も次第に変化し、ピット家ではコーンウォールの自領から産出されるカオリン土に対して、1トンあたり20ポンドの科料を課すようになった。
 こうしたことがチャンピオンの事業を次第に圧迫するようになり、また1775年には硬質磁器関連の特許権(鉱山使用権)延長の申請に対し、ジョサイア・ウェッジウッド一世を中心とするスタッフォードシャー窯業群の厳しい反対運動に合い、議会での応酬合戦から裁判にいたる泥沼の争いとなった。
 結局裁判などを経て1775年に、1796年までの特許権延長が認められたものの、その後ブリストル窯の事業は発展せず、チャンピオンは自らが保有する権利を貸し出すことで収入を得ようとした。裁判が決着をみた1775年頃は、アメリカ独立戦争中の事実上のブロック経済の影響で、対米貿易に携わっていた英国商人達は苦境に立たされていた。チャンピオンは窯業者としてよりも、サウス・カロライナ州との海運貿易で財を成した人物で、この事業の低迷によって借金がかさんでいた。そのため彼は、製磁事業の特許権の貸出先を求めて、議会や裁判で対立したスタッフォードシャー窯業群を1780年に歴訪する。スタッフォードシャー地方からの激しい反対こそ、硬質磁器事業を希求する結果の行動と判断してのことであった。
 1780年当時のスタッフォードシャー地方には、ダービー窯の模造品を作ったニール窯以外には、磁器を製造する窯はなかった。磁器は専らカーフレイ窯とダービー窯が供給し、ウースター窯がこれに続いていた。チャンピオンは磁器産業がなかったスタッフォードシャー地方の諸窯に売り込みをかければ、多くの窯業者が自分の持つ特許秘法とコーンウォールの材土の使用権に飛びつき、契約を結ぶだろうと予想し、当初の計画では特許や鉱山の使用権を売却せず、材土の使用権料と特許使用料をスタッフォードシャー窯業群から徴収する目論見であった。しかしこの見通しは甘く、最終的に彼の誘いに乗る窯業者はなかったため、計画は頓挫した。そこで彼は、嘗ての裁判での仇敵ジョサイア・ウェッジウッド一世と、1780年十一月初頭に数回の面談を行った。この席でチャンピオンは、鉱山の使用許可、コーンウォール産カオリンの使用権、ブリストル窯のパターン、モールド、製磁秘法、硬質磁器の特許権をまとめて6,000ポンドでジョサイア一世に売りたいと申し出た。このときチャンピオンは、自分が所有する貿易船(最低でも6隻以上の船を所有していたといわれる)が、15,000ポンドの積み荷とともに先頃沈没した、とジョサイア一世に語っている。窯業者が河川や運河での陶磁器・材土などの輸送に使用する「フラット」と呼ばれる艀(はしけ)が、当時の建造費で約1,000ポンドであった。チャンピオンが持っていた大西洋などの外洋航海用三本マストの貿易船は、建造に約3〜5,000ポンドを要した。こうした建造費は借り入れで賄われ、その後分割して返済されていたために、チャンピオンは積み荷と船を併せて18,000〜20,000ポンドの損失を被った計算になる。この沈没事件は、チャンピオンが1780年に行ったスタッフォードシャー地方訪問の直接の契機になったものと考えられる。
 しかしジョサイア・ウェッジウッド一世はこの提案を断り、スタッフォードシャー在住の窯業者達を紹介した。そこでチャンピオンは他の窯業者とも同様の交渉を行い、一応の妥結をみた。この時にチャンピオンの特許権等を買い取ろうとした人々は、シェルトンのサミュエル・ホリンズ(1748〜1820)、ホットレインのジェイコブ・ウォーバートン(1741〜1826)、タンストールのアンソニー・キーリング(1738〜1815)、レインエンドのジョン・ターナー(1738〜87)、シェルトンのチャールズ・バグノール(1747〜1814)、ポートヒルのウィリアム・クロウズ(生没年不詳)である。様々に残された手紙類を総合すると、1781年11月には特許の譲渡に関する合意に達したものと思われる。チャンピオンは1781年にブリストルを出てスタッフォードシャー州のニューキャッスルに移り、メリル・ストリートに居を構えて製磁のための研究所も設置した。しかし1782年4月には窯業と縁を切ってロンドンに移り、その後1784年にはアメリカに渡って、以前からサウス・カロライナ州に自身で所有していた農業プランテーションの経営を行った。そして1791年10月17日に、その地で生涯を終えた。
 一方スタッフォードシャーでは、1781年12月から1782年にかけての時期に、ブリストル式硬質磁器事業の主要メンバーだったキーリングとターナーが資本を引き上げ、仲間から抜けてしまった。ターナーが辞めた理由は不明だが、キーリングはスコットランドのエジンバラに所有していた窯業が1775年に倒産し、その負債を抱えたままだった1782年当時は、財政難に陥っていたと考えられている。
 この二人が去ったために、サミュエル・ホリンズとジェイコブ・ウォーバートンは、新たにジョン・ダニエル(1756〜1821)と提携して彼の資本を入れた。ジョン・ダニエルはジェイコブ・ウォーバートンの母方のいとこにあたる人物である。
 こうして成立したホリンズ、ウォーバートン&Co. が、後に「ニューホール」と呼ばれるようになってゆく。
 ところで、ニューホール窯が本当にプリマス−ブリストル式の真正硬質磁器を焼いていたのかということになると、あながちそうでもないらしい。1922年にヴィクトリア&アルバート・ミュジアムから刊行された「英国磁器の分析された素材」という小冊子の中で、ハーバート・エックレスが発表した成分表を見ると、ニューホール製の磁器はチェンバレンズ・ウースターのハイブリッド・ハード・ペースト磁器とよく似た成分組成になっていることがわかる。硬質磁器は全体の90%以上を占めるシリカとアルミナの含有量にその特性が現れるので、この二つの成分について見てみると、
ニューホール シリカ   73.56%
         アルミナ 19.30%
チェンバレン  シリカ   75.36%
         アルミナ 18.87%
となっている。この二つはほぼ同じ焼き物ということができる。しかしこれでは「真正硬質磁器の特許を引き継いだ」というニューホール窯の説明の根幹が揺るぐことになってしまう。そこでR.G.ストリンガーが1949年に刊行した自著の中で、独自に成分分析を行った結果を発表した。それによると、
ニューホール シリカ   68.37%
         アルミナ  23.54%
ブリストル   シリカ    69.96%
         アルミナ  24.43%
となっている。これならばニューホールとブリストルではほぼ同じ焼き物が作られていたと言うことができる。この分析のブリストルの部分は、1922年のエックレスの研究結果を引用したものである。
 このデータからわかることは、ニューホールでは真正硬質磁器の他に、チェンバレンに近いハイブリッド・ハード・ペースト磁器など、様々なタイプの焼き物が作られていたのではないかということである。その他の可能性としては、ハーバート・エックレスがニューホールそっくりの模造品を作ったファクトリーX、Y、Zやチェンバレンの作品を、ニューホール製と間違えた、とも考えられる。もしそうならば、分析結果はハイブリッド・ハードペーストを示すことになる。1922年時点の研究度合いと情報量では、こういった間違いがないとは言い切れない。ニューホールの真贋判別は、それほどまでに難しいということなのである。
 しかし前述のストリンガーは、ニューホールの素磁について、その成分は硬質磁器と同じであっても、実際には硬質磁器ではない、と結論づけ、「ニューホール硬質磁器説」を生涯にわたって堅持したデイヴィッド・ホルゲイトと真っ向から対立した。このようなストリンガーの主張の根拠は、ニューホール窯の焼成温度にある。
 中国、マイセン、ブリストルの磁器は1450度の再焼成実験に耐える。つまりこれらが真正硬質磁器であることを示している。チェンバレンは1430度、コールポート、カーフレイは1350度に耐えるため、これらは「ハイブリッド・ハード・ペースト(疑似硬質磁器)」とする。しかし一般的なニューホール製の磁器は、1250度に耐えられず、まるで飴のように溶けてしまう。本焼成時の窯内温度は1150〜1200度だっただろうと推測されている。このことで、ニューホール製品が硬質磁器としての必要条件を満たしているのかどうかについては議論が分かれるところだ。現在、一体何をもって硬質磁器の定義とするのか、ハイブリッド磁器との境目の一線はどこに引くのか、という基準は確定していない。
 開窯当初の1783〜86年に製造されたニューホール窯の硬質磁器は、後の作品とは造形・加飾ともにかなり異なる雰囲気を持っている。この時代を「初期ニューホール窯」と呼び、この頃はおそらくブリストル式の硬質磁器だけを作っていたと思われる。
 1787年にフィデル・デュヴィヴィエが参入して、ニューホール窯の装飾の技術水準が向上した。絵付けは中国磁器の模造から始まり、1800年前後にはフェストゥーン装飾を中心に、セーヴル窯の模造品なども作られた。
 1796年にはチャンピオンから買い取った鉱山使用権が切れたため、同1796年にジョサイア・ウェッジウッド二世と協同して陶土供給会社「ポターズ・クレイ・カンパニー」を設立し、大株主として資本参加した。続いて1799年からは、トーマス・ミントンが中心となって設立したコーンウォールの陶磁器用材土供給会社「ヘンドラ・カンパニー」に率先して参加した。
 1810年には創業メンバーであるジェイコブ・ウォーバートンとチャールズ・バグノールが引退し、会社はジェイコブの息子であるピーター・ウォーバートンに引き継がれた。この1810年までを「前期ニューホール窯」と呼ぶ。
 ピーターは同1810年、「ウォーバートンズ・パテント」と称するメタリック・カラーのプリント彩色を発表した。もともと銅版転写よりもバット・プリント(膠などで作る柔らかいプリント印版で、細かい表現が可能)が得意だったニューホール窯では、この「ウォーバートンズ・パテント」で美しいプリント加飾を行った。このタイプの硬質磁器は、次にやってくるボーンチャイナの時代との過渡期に位置する作品である。
 デイヴィッド・ホルゲイトの説では、ニューホール窯は1812〜14年の間にボーンチャイナを導入したとされる。ジェフリー・ゴッデンの説では1813〜15年の間にボーンチャイナが導入されたことになっている。ゴッデンの場合は流通開始年を重視するために、多くの場合年代が一年後ろへずれ込む傾向にある。そこでボーンチャイナ導入が1814年までに完了、翌1815年から市場に出回った、と考えるのが妥当である。いずれにせよ硬質磁器の製造は1815年までに終了し、この特許は以後誰にも引き継がれず、イギリスでの真正硬質磁器事業は滅んでしまった。
 この時期の英国窯業界では、同様の素材革命や販売革命が起こっていた。1811〜14年までの出来事をまとめてみよう。
1811年 ダービー窯をロバート・ブルーアが買収。
      チェンバレンが新素材「リージェント・チャイナ」を発表。
      ヒルディッチでボーンチャイナ事業が始まる。
1812年 グレンジャー&リーが新工場を建設して磁器製造を開始。
      ウェッジウッドがボーンチャイナ製造を開始。
      ウースターがビリングズレイ父子に依頼して新磁器素材を完成。
1813年 第一期ナントガーウ窯成立。
      ピンクストン廃窯。
      マイルズ・メイソンが「アイアン・ストーンチャイナ」を開発してボーンチャイナから撤退。
      チェンバレンがロンドンに小売店を開く。
      ウースターが「バー、フライト&バー」から「フライト、バー&バー」に。
1814年 旧カーフレイ工場が廃絶。

 1806年以降の英国窯業は、ナポレオン戦争が原因の海上封鎖で大陸への販路を失い、多くのメーカーが売り上げ減少という苦境に立たされていた。1812年にナポレオンがロシアから敗退すると、再び大陸への物資流通が復活した。ニューホール窯ではこのような時期にボーンチャイナの導入を図っていた。ちょうど同時期には商売仲間で縁故が深かったウェッジウッド社も、1812年からボーンチャイナの製造を始めている。このことやチェンバレンの「リージェント・チャイナ(1811)」、マイルズ・メイソンの「アイアン・ストーンチャイナ(1813)」、フランスから流入する硬質磁器などの新素材が、ニューホール窯にも刺激を与えたことが十分に想像できる。
 ところが、ニューホール窯がそのような過渡期にあった1813年、会社を継いで三年目のピーター・ウォーバートンが、三十九歳の若さで急逝する。ピーターは窯業のノウハウをよく知り、経営にも積極的で、余人をもって代えがたい貴重な指導者だった。父ジェイコブより十三年も早かったピーターの死についてデイヴィッド・ホルゲイトは、ニューホール窯にとっての「滅びの鐘の音、破滅への凶兆」という凄まじい表現を用いて嘆いている。実際に優れた窯業者が次々に現れ、少しでも経営にしくじった窯は容赦なく潰されていった1820〜30年代にあって、ピーターという大黒柱を失った状態でボーンチャイナ製造に業態転換せざるを得なかったニューホール窯が、健全に事業を展開できるはずはなかった。1820年に創業以来の筆頭株主サミュエル・ホリンズが亡くなると、経営状態は次第に悪化し、ボーンチャイナ導入から十七年目にあたる1831年に、窯の土地や工場がオークションにかけられた。しかしニューホール窯の資産には買い手がつかず、翌1832年になってもまだ競売を公募していた。納屋や倉庫としての使い道で購入するのが順当だったこの手のオークションでは、ニューホールの窯施設は大き過ぎ、逆に付随施設は小さ過ぎたといわれている。そのまま工場は荒れ果て、廃絶してしまった。在庫品は1835年に競売にかけられている。

 ここでは特徴的なモザイク・ボーダーと小さな花絵が描かれたティー・ボウルを紹介する。この図柄はニューホール窯では173番のパターンとして記録されている。釉薬は中国磁器に似て、やや灰青色を帯びている。このような鄙びた風情の花絵のボウルは、英国国内に大量に作例が残されているが、何もかも十把一絡げに「ニューホール製」と判断してはいけない。必ず磁器の品質、色合い、釉薬の厚み、気泡、灰降り、高台の作り、口縁の薄さ、顔料の色味などから慎重に判断しなければならない。本品は中国磁器のコピーだが、これと全く同じデザインで作られた他窯製品が沢山出回っている。重ねて言うが、ニューホール磁器の年代毎の品質や釉薬の固さ、口作りの厚みを知らずして、この窯の製品であるかどうかを判別することは難しい。

 

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