ロウストフト
1780〜85年
ティー・ボウル:H=42mm、D=81mm/ソーサー:D=123mm
 ロウストフトにおける窯業開設に最初に取り組んだのは、ヒューリン(ヒューリング)・ラスンだといわれる。彼は1750年代前半に、自分の所有するガントンの土地から採取された土をロンドンに送って成分を調べさせ、1756年、軟質磁器の窯を作ろうとしたが、目的は果たせなかった。彼の活動に気付いたロンドンのボウ窯が、ロウストフトにおける製磁事業を妨害すべく、職人を買収したためと見られている。
 このような卑劣な企みがロウストフトに渦巻いていたのと同じ頃、元ボウ窯の技術者であったロバート・ブラウンが、ボウ窯式骨灰磁器の材料配分法を盗み出し、タイル工場の経営者であるフィリップ・ウォーカーら地元の有志を募って、1756年、ロウストフトに窯を建てることに成功した。ブラウンは化学者ではあったが、陶工ではない人物である。実際のところ、彼は職人になりすましてボウ窯に潜入し、その秘法を奪ってロウストフトに逃げ帰ったというのが真相らしい。「元ボウ窯の技術者」といっても、ボウ窯ではスパイ技術の他には何ら特段の技術も発揮しなかったといえよう。
 権謀術数の挙げ句に発足したロウストフト窯も、その野望とは裏腹に、当初は州外に販路を拡げられず、地場産業の民窯として翌1757年から細々と経営を始めた。ロウストフト窯ではブラウンの存命中、創業から二十年もの長きにわたって染付しか製造しなかった。これはロンドンなどの大都市の需要をさほど狙わなかったことを示している。工場では手頃な価格の中流階級向きな家庭用日常食器が作られた。窯元直販の販売スタイルで、近所の人達は誰でも気軽に工場を訪れ、直接商品を譲ってもらうことができた。さらに好みの絵柄や文字(人名、生年月日、地名など)の書き入れといった個別注文にも応じていた。ロウストフト窯は、まさに地元密着型の企業だったのである。
 しかしロウストフトという土地は有数の英蘭貿易の拠点港であり、オランダ船の出入りやオランダ商人との交流に無縁でいられたとは考えにくい。そしてこのような染付磁器を好んで売買したのもまた、オランダ人であった。ロウストフト窯の染付は、デルフトなどのそれと比べると品質に大きな差があることは否めないが、廉価だったというところが商売の強みであった。
 従って色絵のロウストフト作品は、1770年代後半になってからでないと現れない。1771年にロバート・ブラウンが亡くなると、窯を引き継いだ息子のロバート(父と同名)が、父の経営方針を転換し、エナメル上絵付けによる色絵の加飾や、転写版プリント絵付けを導入した。それらは主に、中国製やウースター、カーフレイなどの他窯製品を模倣した絵柄と形状で作られた。
 このような色絵磁器の製造が始まると、中国製のよく似た絵柄の磁器が「チャイニーズ・ロウストフト」と呼ばれるようになった。19世紀以来20世紀の初頭まで、ヨーロッパやアメリカの磁器コレクターの間では、ロウストフト窯はオランダ貿易を通じて中国白磁を買い、それに絵付けを行っていたという説が一般に信じられ、中国製の輸入磁器を「ロウストフト」と呼ぶ習慣があった。このことから一部の中国磁器がロウストフトにおける加飾仕上げと誤解され、「チャイニーズ・ロウストフト」という呼称が生まれたのである。しかし中国製品に対するロウストフト窯の関与はない。ロウストフトの素磁は骨灰40〜45%含有のボウ式軟質磁器で、チャイニーズ・ロウストフトは硬質磁器なので、判別は容易である。
 ある意味ではチャイニーズ・ロウストフトの方が絵柄も多種多彩であり、絵付けも上手く、素磁も美しい場合があり、それなりに魅力が高いという見方も成り立つ。そもそも「トーマス・カーティス・パターン」自体が、中国磁器のファミーユ・ローズを手本にしたものなので、「ニワトリが先か卵が先か」といった話になってしまいそうだ。
 ところで、ロウストフトの町は英国本島南東端の海岸沿いにある。この土地は、そのロケーションから、保養地として州外のリゾート客が多く集まる場所でもあった。海岸を訪れたり、海釣りをして休暇を過ごす観光保養客達の多くが、空いた時間にロウストフト窯を訪れたという記録がある。そういった観光客の需要に応えるため、ロウストフトではお土産品の製造にも重点を置いていた。彼らは滞在の記念として、ロウストフトの地名が書き入れられた焼き物を、大概一つか二つは買って帰ったそうだ。「ア・トライフル・フロム・ロウストフト(ロウストフト産の粗品)」と書き込まれたお土産用のマグカップや小物類の作例が、今に伝わっている。
 この話が示すように、ロウストフト窯は他窯から遠く離れて孤立した存在であり、地の利がなかった。そのため18世紀末から台頭し始めるスタッフォードシャー窯業群と違い、大規模な商売が見込めず、他窯と競合するだけの力がなかったロウストフト窯は、1795年頃から次第に製造を縮小し、職人の多くは1799年にチェンバレンズ・ウースターに移り、事実上の廃窯となった。
 磁器製造を止めた後も、既存在庫への絵付けが1802年頃まで続き、同年ロバート・ブラウンが亡くなると、その遺言によって後事を託されたロバート・アレンは、ロンドンのハイ・ストリートに自費で絵付け工房を開いた。地元生まれの子供だったアレンは、開窯当初の1757年、十二歳でロウストフト窯に入り、1780年からディレクターとなって采配をふるった。最も若いスタッフだった彼は、創業時以来のロウストフト窯の全ての軌跡を知る最後の生き残りとなった。しかしアレンの工房ではロウストフトの在庫磁器にではなく、陶器に絵付けしていたとみられている。その後アレンは九十一歳という天寿を全うして、1835年に没した。

 ここに掲載した作品は、ロウストフトの名高い絵付け師トーマス・カーティスのデザインとされ、「トーマス・カーティス・パターン」と呼ばれる中国写しの絵柄で、1775年頃から廃窯まで、様々なバリエーションが描かれた。本品はロウストフト窯で頻繁に用いられたモザイク・ボーダー入りのオーソドックスなもので、よりシンプルなボーダーのティー・ボウルが「アンティーク・カップ&ソウサー」p.45に掲載してある。
 またこの花絵が花籠に入っている絵柄もよく描かれた。この花籠は角型のシルクハットを逆さにした形(手品でハトを取り出す時の状態)に似ているので「トップ・ハット・パターン」と呼ばれる。
 参考として18世紀中国製のソーサーの写真を添えておく。「アンティーク・カップ&ソウサー」p.45掲載品のソーサーに描かれた花絵は、この中国製ソーサーの絵柄とよく似たデザインで、枝茎の流れ方が共通である。一方ホームページ掲載品のソーサーは、ボーダーのモザイクと花綱の描き方と組み合わせが、この中国製ソーサーと共通である。

 

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