カミーユ・ル・タレック
1957年 手書きでル・タレックの窯印
コーヒー・キャン:H=58mm、D=58mm/ソーサー:D=119mm
 本品の絵柄は、ル・タレック社によって「バイヨー・シノワズリー」と名付けられている。
 フランスのバイヨー窯は、やや大振りで厚手であるが、優れた磁器食器類を作ったメーカーで、その絵付けの多くに鮮やかな多色の中国人図が用いられたことにより、それに類する絵付けデザインは「バイヨー窯風のシノワズリー」として知られている。
 バイヨー窯の絵付けでは、屋外で楽器を奏でたり、椅子に座って寛ぐ中国人を複数配置し、それらの人物画は比較的大きくしっかりと描かれている。本品はそれに比べると人物は小振りだが、ドラゴンが牽く単軸の竜車に南方風の帽子を被った御者が乗り、岩地に椰子か棕櫚風の樹木、東屋や垣根が描かれている。
 フルカラーによる中国人図はアンシャン・レジーム時代のセーヴル窯や、ウィーン窯第三〜四期にも製作されているところから、バイヨー窯風のシノワズリー絵付けが国境を越えて全欧に流行していたことがわかる。
 本品の色絵顔料は全てマット状に仕上げられて艶がない。盛り金のボーダーのほか、ドラゴンの羽、御者の顔と竜車の頭、車輪、東屋の屋根瓦には、チェイシングで磨き線文様が施されている。
 






カミーユ・ル・タレック
1983年 手書きでル・タレックの窯印
コーヒー・キャン:H=60mm、D=57mm/ソーサー:D=118mm
 本品のように異なる多種の草花が連続的に巡る絵付けは、パリ製磁器作品の伝統的様式である。本品では薄紫の地色の上に、八種類の花がカラフルに描かれている。
 白磁はリモージュのジロー社製で、ル・タレック社は白素磁を購入して絵付けのみを行っている。
 






カミーユ・ル・タレック
1965年 手書きでル・タレックの窯印
コーヒー・キャン:H=60mm、D=58mm/ソーサー:D=117mm
 本品はポンペイ遺跡から出土した陶器作品や壁画からインスピレイションを得てデザインされたものである。全体を艶のある黒で覆っているが、これは地色ではなく、色絵を避けて塗り潰す面倒な作業で施されている。
 カップにはローマ風の鶴口壺と白葡萄を盛った有蓋甕、梨や林檎などの果物類、ウサギと蝶が、金彩の直線上に描かれている。テーマは飲食物で、ウサギは食用であり、ワイン作りが表現されている。
 ソーサーには鳥籠が二つと、椰子もしくは棕櫚の木、果物類、ローマ風の瓶や杯、フィンチに似た鳥が三羽描かれている。鳥の餌は昆虫で、一羽が頭を下げて蝶か蛾を食べている様子が見える。
 






カミーユ・ル・タレック
1959年 手書きでル・タレックの窯印
コーヒー・キャン:H=61mm、D=60mm/ソーサー:D=122mm
 カミーユ・ル・タレック(ル・タレ)は、1906年11月9日、パリに生まれた。
 若い頃、彼はヴァイオリン独奏者としての活躍を夢見て、パリ・コンセールヴァトワール(パリ音楽院)のヴァオリン科に入学した。しかし1925年、十九歳の時、交際中の女性との間に子供ができ、カミーユは家族を養うため、音楽家への道を断念せざるを得なくなり、コンセールヴァトワールを退学した。
 カミーユと同世代のヴァイオリニストには、ヤッシャ・ハイフェッツ(1901生)、ジノ・フランチェスカッティ(1902生)、イヴァン・ガラミアン(1903生)、ナタン・ミルステイン(1904生)、エリカ・モリーニ(1904生)、マックス・ロスタル(1905生)、ジョコンダ・デ・ヴィート(1907生)、アルフレッド・カンポーリ(1908生)、ダヴィド・オイストラフ(1908生)、 シモン・ゴールドベルク(1909生)らがいる。これら綺羅星の如き演奏家を排出した20世紀初頭は、我々の多くが当時から現在まで、その録音芸術に魅き付けられているヴァイオリンの名手が居並ぶ時代だった。しかし、LPレコードがモノーラルからステレオフォニックに転換する時期にまたがって活躍した上記の人々の世代には、不思議なことにカミーユが学んだ名門パリ・コンセールヴァトワールからは、傑出したヴィルトゥオーゾが育っていない。
 音楽人生を諦めた彼は、父祖以来の生業であった磁器絵付け業を引き継ぐことにし、モンマルトル近郊のベルヴィルに、1900年頃祖父が建設した工房で働いた。パリでは20世紀になってもなお、少なからぬ窯業者が、いまだにセーヴル窯など18世紀の名窯のコピー、イミテイションを製造する贋作活動を繰り広げていた。19世紀後半から第二次世界大戦後の1950年代にかけて、最も「華やかな」贋造を行って数多の「黒い陶磁器」を残したのは「ポルセレーヌ・ド・パリ」と「サンソン・ザ・イミテイター」だったが、カミーユの祖父と父もこのような贋作者の一翼を担う存在であったため、彼はヴァンサンヌ=セーヴル窯の作品を模造する作業に従事した。
 やがて1929年、カミーユは磁器とファイアンスの歴史的絵付け技術を学ぶため(贋造目的)に、ルーヴル美術館付属学校(ルーヴル学院)に入学した。昼間はここでの研究生活を七年間続ける傍ら、家業の絵付け作業は夜に行い、仕事はしばしば深夜にまで及んだという。ルーヴルでの勉強の甲斐あって、彼はめきめきと贋造技術の腕を上げ、貴重な美術陶磁器の全てのジャンルにおいて、完全なイミテイション・テクニックを身につけるまでになった。カミーユはローマ時代の陶器すらも再現製作したことがわかっている。
 彼の熱心な研究態度はルーヴル美術館館長の目に留まり、卒業後は同美術館の美術部門副主管に抜擢された。ルーヴル学院におけるカミーユの卒論テーマは「ナスト窯」であった。
 しかし、間もなく勃発した第二次世界大戦が、彼のルーヴル美術館における仕事に終止符を打たせることになる。フランス軍人として連合国側に従軍したカミーユは、ナチス・ドイツの捕虜となり、二回脱走を試みたがいずれも捕らえられて失敗し、三回目の挑戦でからくもパリ市街に辿り着いた。それから戦争集結まで、カミーユはナチス・ドイツからの逃亡・隠遁生活を余儀なくされた。パリに隠れ棲んでいる四年間のうちに、カミーユはコピー・贋作活動から手を引きたいと考え、いずれはオリジナル・デザインの作品を世に問うてゆきたいと決意するに至った。
 1945年に第二次世界大戦が終結すると間もなく、カミーユは「磁器のシュルレアリスム」と銘打って、パリ・ロワイヤル通りで第一回の作品展を開催した。この時出品されたのは二百五十枚に及ぶ絵替わりの皿で、画風は伝統を打ち破った斬新なものだった。
 やがて1950年代に入ると、カミーユは再び作品展を催し、「磁器の中の踊り」をテーマに二百五十枚の絵皿を出展した。この展覧会は大いに好評を博し、フランス国内ばかりでなく、イギリス、イタリア、北米、南米各国のマスコミが取材に訪れ、カミーユ・ル・タレックの名前は世界的に知られるようになった。また彼は、1935年のルーヴル美術館時代以来、二十年間にわたって収集した歴史的陶磁器の大コレクターとしても紹介されている。
 北米の市場に注目したカミーユは、1961年にニューヨークのティファニー&Co. と契約し、同社のプライヴェート・ストックという触れ込みで作品の供給を開始した。これ以後ル・タレックとティファニーの名前は一体のものとしてとらえられるようになった。
 それから十五年後の1976年に、フランスの歴史的絵付けと現代的なデザインを世界中に広めた功績により、カミーユはレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ・クラスを受章した。
 1990年に米国法人を設立したカミーユは、同年、生涯をかけて収集した陶磁器の大コレクションをオークションにかけ、それらの大半は世界中の博物館に収まることとなった。戦争により志半ばにしてルーヴル美術館での職の道を断たれ、逸品に手近く接する機会を失ったカミーユは、いつまでも思い出の理想郷に生きるためにアンティーク陶磁器の収集に情熱を傾けた。コピーと贋作に囲まれて青年期を過ごしたカミーユにとって、贋作でなく本物を自分の身近に置くことは反動でもあり、夢であった。しかし死期を悟ったカミーユはその夢を手放し、彼が愛した歴史的名品はガラス越しに見る収蔵品として、今も世界で公開されている。
 五十五年間にわたって20世紀のパリの磁器絵付け業界をリードし続けたカミーユ・ル・タレックは、オークションの翌1991年8月21日に八十四年の生涯を閉じた。

 本品はロココ時代のセーヴル磁器からインスピレイションを得てデザインされ、柄名は「伯爵夫人」と称する。この場合はルイ十五世の寵愛を受けたマダム・デュ・バリーをイメージした作品ということになる。
 盛り金で月桂樹に似た葉繋ぎ文様、青のエナメルで波文、金彩のバンドにチェイシングで連続の陰影グラデーションが施されており、セーヴル磁器ロココ第二期装飾を模した意匠になっている。
 

サイトに掲載の写真、文章等の無断転載・転用は堅くお断りします。
Copyright (C) 1999 mandarin d'argent, LTD. All rights reserved