ミントン
1810年頃 青のエナメルでセーヴル窯のLLのモノグラムの窯印を模した窯印
コーヒー・キャン:H=62mm、D=63mm/ソーサー:D=136mm
 既に掲出されているパターン・ナンバー58の風景画の金彩枠装飾文様や小花散らしのデザインなどは、ピンクストン窯が製作したパターン・ナンバー221のカップ&ソーサーを模造したものである。したがってリザーヴ・パネル内に描かれた風景画を除き、それ以外の装飾部分にはミントン窯の独自性がない。一方でパターン・ナンバー150の本品は、そのデザインにセーヴル窯、ダービー窯、ピンクストン窯からの強い影響を受けてはいるものの、オリジナル性に乏しい他窯の完全コピー品とはいえない。
 風景画を取り囲む周囲の余白部分を埋める格子文様を「トレリス」と呼び、格子の間には五芒星文が配置されている。中央にはリザーブ・パネルが残され、その内側に風景画が描かれている。風景画には様々なパターンがあり、金彩トレリス文様と風景画の組み合わせを総括したデザインをパターン・ナンバー150と指定している。
 パターン・ナンバー58の前掲作では、田舎風の民家をクローズ・アップして描いており、その視点は近視的であるが、パターン・ナンバー150では視点がより遠視的になり、風景の奥行きが深く、人物や羊、立木や舟などは小さく描かれて、画面の広がりを意識させるモティーフが選ばれている。風情のある樹木が画面の端に手前の視点で描かれ、川が曲がる中景には岩山の崖が聳えるなど、ウィリアム・ギルピンが提唱したピクチャレスク風の描き方で、いかにも都合の良い構成材料を巧みに配置している。これはパターン・ナンバー150に共通する画風である。
 本品には滑らかな釉薬を施した質の良いボーン・チャイナが使用されているため、特に選別されて製作された高級品であったことがわかる。
 





ミントン
1812〜16年 青のエナメルでセーヴル窯のLLのモノグラムの窯印を模した窯印
コーヒー・カップ:H=65mm、D=80mm/ソーサー:D=136mm
「楼庭思」
柳舎満灯擾路繞   柳舎の満灯、擾路につらなり
旅人憩逆洛陽城   旅人(りょじん)は憩いとどまる洛陽城
今宵上階待花開   今宵、階(きざはし)に上りて花開くを待つも
晨如何去惜別情   晨(あした)には如何にして惜別の情を去らんや

 第一期ミントン窯が製作したシノワズリ絵柄のカップ&ソーサーで、この山水図を見ているだけで七言絶句を詠めてしまうほど、独特の豊かな色彩による詩情溢れる作品である。奥行きのある画面には、遠景にいかにも中国的な山が描かれ、杣道にはまばらに樹木を並べて南画風のしつらえになっている。その山麓を縫って流れる水は手前の池に繋がり、左右には廃墟となって久しい高楼と、両岸に跨る橋、その上に弁髪長袖(ちょうしゅう)の中国人が佇んでいる。橋の側面には金彩で精巧な唐草・唐花文様が描かれ、左上の崖から伸びる樹木は柳が変形したものである。
 背景の空は画像では白く写って見えるが、驟雨の名残の霧が立ち昇る夕景を、ごく薄いオレンジ色で敢えて刷毛目も露な縦方向のムラ塗りによって表現している。かなり意を尽くした構図と装飾で、第一期ミントン窯のシノワズリ・デザインの白眉と言える作品である。
 本品は極めて上質なボーンチャイナが使用され、同じロンドン・シェイプのティー・カップが添っており、トリオのセットになっている。
 また本品と同様の図柄の磁器はニューホール窯でも製作されており、パターン・ナンバー1325番として知られている。
 






ミントン
1800〜05年
ティー・カップ:H=59mm、D=77mm/ソーサー:D=141mm
 本品はミントン窯が、同社の磁器作品製造史上初めて風景画を製作した、最も古いデザインで仕上げられている。パターン・ナンバーは58で、底面の高台脇に数字の書き込みがあるが、このパターンは金彩の図柄、すなわち飾り付きの円窓に三か所の花絵散らしというデザインを指すもので、窓内の風景画のモティーフは親方絵付け師の裁量に任されていた。本品では水辺・立ち木・山・雲・水車小屋・民家が組み合わされ、使用されている色数は少ないが、重厚な雰囲気のある田舎の風景が展開している。
 カップはオーヴァル・リング・ハンドル付きのビュート・シェイプで、改良されたターナー白磁が用いられている。ミントンの初期風景画に用いられた金彩は、色絵の発色を守るために低温で焼き付けられており、比較的剥れやすいのが特徴である。
 






ミントン
1810〜15年 青のエナメルでセーヴル窯のLLのモノグラムの窯印を模した窯印
コーヒーキャン:H=62mm、D=68mm/ソーサー:D=136mm
 この作品は中国人の子供の遊びやスポーツを題材にした一連のシリーズの絵柄のうちのもので、写真では筒形のコーヒーキャンを紹介したが、ビュート・シェイプのティーカップも伝わっている。参考として二枚のソーサーを掲載した。
 唐子遊びは他に、太鼓を叩くなど楽器の演奏や、テニスなどの球技があり、人物はほとんどの場合、こちらから見て右に向いて描かれている。
 本品のコーヒー・キャンには、蝶を捕まえようと手を伸ばす子供の情景が見えるが、これは原画ではボールを転がして地面に打った杭の間を通す遊びのシーンとして描かれ、手はボールを投げた瞬間の姿である。ソーサーには笛を吹く姿や、凍った湖の上でスケート遊びをする場面が描かれている。笛は体に比べてアンバランスに長いところがユーモラスで、またスケートは靴の上から刃を縛りつける、ローラースケートタイプの古い遊具(当時はこの装着法だった)がそのまま描かれ、靴の上には二本の紐が見える。子供は寒そうに背を丸めており、氷の透明感や光の反射、遠近感などもなかなか巧みである。それぞれの被り物も珍妙なので、是非ソーサーをよく御覧いただきたい。
 いずれの絵にも非現実的な樹木が描かれており、葉を金彩で表現しているために独特の雰囲気が醸し出されている。
 パターン・ナンバーは539で、セーヴル窯を模した窯印の下に数字が書かれている。
 






ミントン
1805〜10年
ティーカップ:H=52mm、D=87mm/ソーサー:D=138mm
 18世紀英国陶業界の大立者だったトーマス・ウィールドンは、事業の成功によって晩年までに形成した一万ポンドもの資産を活用して、ストークの地に若い優秀な陶磁器職人を集めようと思い立ち、トレント川東岸に四軒のレントハウスを建てた。1789年、このうちの一軒を借りて、新婚のカップルがロンドンから引っ越してきた。夫の名前をトーマス・ミントンという。
 トーマス・ミントンは1765年、シュルズベリのワイルコップに生まれた。若くしてカーフレイ窯の転写プリント用銅版彫刻師となり、その後独立してロンドンで銅版彫刻業をしていたが、結婚を機にストーク・オン・トレント(「トレント川のほとりのストーク」の意味)に移住した。このレントハウスがあった辺りは、トーマス・ウィールドンの業績を称えて「ウィールドン・ロード」と呼ばれている。
 トーマス・ミントンは1793年に、ストークにあったブース一族(エフライム、ヒュー、ジョンの三人)の土地を窯業用地として購入取得した。しかし実際に陶器製造の操業を始めたのは1796年以降である。この年トーマス・ミントンは、窯の共同出資者として、陶工のジョゼフ・プールソンと原型彫刻師のサミュエル・プールソンの兄弟と提携した。ついでリヴァプールの商人ウィリアム・パウノールも資本参加させ、会社は「ミントン、プールソン&パウノール」となった。このように企業体力の充実を図った末に、1799年、トーマス・ミントンはボーンチャイナを導入し、ミントン社初の磁器焼成に成功した。
 現代のミントン社では、ボーンチャイナ完成を1797年末〜1798年としているが、一般には1799年からがミントンのボーンチャイナの流通開始とされる。
 ミントン社が作った初期のボーンチャイナのデザインには自社の独自性が乏しく、多くの製品が他窯の模作・コピー品の範囲を出ないものだった。初期ミントン社が絵柄を真似した主な窯業者名を挙げると、ウースター、ダービー、カーフレイ、チェンバレン、ピンクストン、ニューホール、スポード、コールポート、キーリング、トーマス・ウルフ、ジェイムズ・ガイルズ工房など、多岐にわたる模造デザインがあったことがわかる。これらの初期製品は、トーマスの弟である陶磁器小売業アーサー・ミントンが経営する、ロンドンのスウォロウ・ストリートにあった販売店で売られた。そしてこの小売事業は、かなりの利潤を生んでいたようである。
 トーマス・ミントンはボーンチャイナ開発と機を一にする1798〜99年頃にかけて、コーンウォール地方を訪問し、数度の交渉を経てヘンドラ地域に八十四エーカー(約三十四万平米、十万三千坪)もの土地を買い、更にトレロア地域にも土地を借りて陶磁器用材土の安定供給を目指そうとした。ミントンの目論んだ事業は1800年の年始早々に、コーンウォール産カオリン土の独占使用カルテル「ヘンドラ・カンパニー」として設立をみた。この会社にはウェッジウッド、ニューホール、アンソニー&イノック・キーリング、ウィリアム・アダムズなどが株主として資本参加し、トーマス・ミントンはこれらの企業に対し、向こう二十年間にわたるコーンウォール産材土の独占使用権を与えた。
 1803年11月にはジョン・ターナーをマネジャーとして迎え、このターナーの参入により、ミントン社のボーンチャイナには大きな改良が加えられ、磁胎と釉薬はより優れた新しいものに切り替えられた。ターナー窯はレインエンドにあり、ジョンとウィリアムの兄弟が経営していた。ジョン・ターナーとの提携は1806年3月まで続いた。
 やがて1808年にジョゼフ・プールソンが亡くなると、トーマス・ミントンの長男で牧師だったトーマス・ウェッブ・ミントンと、学生だった次男ハーバート・ミントンが、窯に参入することになった。
 ミントンのボーンチャイナ製品はロンドンでよく売れていたし、他窯のコピー中心とはいいながらも、多様なデザインが作られていた。しかし1815年に骨灰材料を仕入れたのを最後に、1816年以降ミントン社の在庫リストからボーンチャイナは消えてしまう。この1816年を一つの区切りとして、磁器流通開始の1799年からボーンチャイナ製造終了の1816年迄、十七年間の製品を、「ミントンの初期磁器」あるいは「第一期ミントン磁器」と称する。
 ミントン社ではボーンチャイナ製造終了の翌1817年頃までは経営が順調だったため、トーマス・ミントンは1817年、息子二人を株主・経営者に加え、会社は「トーマス・ミントン&サンズ」となった。1819年には次男のハーバートが、ニューホール窯の有力株主の一人だったサミュエル・ホリンズの娘アンと結婚するという慶事もあった。しかしミントン社の経営状態は、1818年、1819年と徐々に悪化し、1820年代に入ると販売成績が急落した。これにより息子達との提携は1822年の年末をもって打ち切られ、1823年からは単独名で「トーマス・ミントン」という会社になった。長男のトーマス・ウェッブは教会の牧師に戻り、ハーバートだけが窯に残った。後に彼は父トーマスが亡くなった1836年以降、ミントン窯の後継者となる。
 このような流れの中でトーマス・ミントンは、ボーンチャイナの製造再開を決意し、1824年から再びボーンチャイナを販売し始めた。今日のミントン社では、ボーンチャイナが1822年の在庫リストから現れるので、ボーンチャイナ再開を1822年としているが、一般には1824年がボーンチャイナの流通再開年とされている。

 今回は、金彩の太いバンドと強烈な朱赤の色彩が印象的なティーカップを紹介する。
 小さなペディスタルが付いたこの形状は、一般的には「フッテット・シェイプ」というが、ミントン社ではこれを「フレンチ・シェイプ」と呼んでいる。当時ロンドンの絵付け工房やフライト&バー、ウースターが絵付け用に大量に輸入していたパリ・クリニャンクール窯製の硬質白磁のカップなどがこの形状をしており、フランス由来のデザインだったことから「フレンチ・シェイプ」と名付けられたのである。
 絵柄は中国に起源を持つ赤い草文で、ゆらめくように動きのある葉の描き方が面白い。この図柄のパターン・ナンバーは180である。
 

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