ダルテ・ブラザーズ(パリ、ド・ラ・ロケット通り)
1808〜25年
コーヒー・キャン:H=63mm、D=63mm/ソーサー:D=129mm
 ナポレオンの生母マリア・レティツィア皇太后の御用窯となって隆盛を極めたダルテ・フレールだが、ナポレオンの失脚によって販路を縮小せざるを得なくなり、また貴族階級からは背かれて売上が伸びず、ド・ラ・ロケット通り工場新設(1808年)からほど経ない1810年代には、経営の危機に瀕するようになった。
 1810年代半ばのダルテ窯製品が、ヨーロッパの上流社会を構成する人々からいかに避けられてしまっていたかを如実に示す資料がある。ナポレオンが引退を強制されていたエルバ島を脱出してパリに入城し、再び皇帝に即位した1815年、皇帝就任の翌四月にロンドンのオークショナー、クリスティーズでダルテ窯のセールが開催された。ダルテ製品の水準は高く、驚くほど豪華で精密な造型と鮮やかな発色、精巧な絵付けで、フランス磁器の筆頭格としての品位を保持していた。ところがオークションの結果は惨憺たるもので、出品された9種類の食器セットのうち、さまざまな動物絵が油絵のように描かれた贅沢なティー・セットが落札されただけで、残り8セットまでが不落札となっている。
 さらにワーテルローの戦いに敗れたナポレオンが再び退位し、いわゆる「百日天下」の施政が短命に終わった後の六月にクリスティーズで開催されたダルテ製品のオークションでは、出品されたダルテ製食器セット9種類のうち7セットが入札不調で、競売成立はクリスティーズが「素晴らしい」と形容したラファエロの「聖母子」や風景画を描いた紺地金彩の二人用デジュネ(朝食セット)と、同じく「エレガント」と形容したデザート・テーブル用の教会型食卓飾り3ピース(117ポンドを超える超高額落札ではあった)の2セットのみであった。
 このようにナポレオンの政治的浮沈変転と連動してヨーロッパ社会での人気と需要がなくなったダルテ窯では、経営の立て直しのためにルイ・ジョセフ・ダルテの後妻の連れ子だったオーギュスト・レミと1824年に提携してその資本を入れた。しかしこのパートナーシップは翌1825年には解消されている。やがて1828年9月26日にルイ・ジョセフは破産宣告となった。半年後の1829年4月には営業を再開したが、五年後の1833年にダルテ兄弟は窯業から引退した。翌1834年に弟のジャン・フランソワが亡くなり、ルイ・ジョセフも1843年に死んだ。

 本品は葡萄色の地に青い花が横に並べられた「パリ・ボーダー」のデザインで、カップ下部には立体的に見せかけるように影を描き込んで奥行き感を持たせた「トロンプ・ルーイ(錯視)」のアーチ文様と、その間に真珠玉の頭部を持つケーンがあしらわれている。大小の真珠玉と青い花の芯部、白い蕾には、盛り上がった同系色のエナメルを点じて立体感と光が当たった具合を表す凝った仕上げになっている。
 ハンドル内側にインナー・スパー(内向きの突起)を持つパリ磁器ならではの造型で、キャンの内側には金彩が施されて贅沢な風情を醸し出している。
 






ダルテ・ブラザーズ(パリ、ド・ラ・ロケット通り)
1808〜25年
コーヒー・カップ:H=80mm、D=75mm/スタンド:D=152mm
 1795年にルイ・ジョセフ・ダルテとジャン・フランソワ・ダルテによって、パリ・シャロンヌ通りに開設されたダルテ窯は、1804年にフォブール・サン・アントワーヌのド・ラ・ロケット通りにあった「オテル・モンタランベール」の建物を買って移転し、1808年より「ダルテ・ブラザーズ(Darte freres)」として同地で営業を継続した。翌1809年からは皇帝ナポレオンの生母であるマリア・レティツィア皇太后の御用窯となったことにより、ナポレオン治世下における事業は非常に繁栄した。ナポレオン好みの固く厳しい古典的作風を守りながらも、精緻な造形と美しい色絵、豪華な金彩を惜しみなく施したダルテ製磁器食器は、まさにフランス皇帝一族の暮らしぶりにふさわしい調度品であった。
 しかし製造コストが高かったダルテ窯のその後の経営状態は芳しくなく、創業時からあった借金は毎年更新されて次第に増額し、遂に1828年、破産宣告となった。

 本品は「エンパイア・ベル・シェイプ」のカップで、「エンパイア・シェイプ」ではもう少しくびれが強く出る口縁下部(本体部)がストレートになり、ちょうど鐘を逆さまにしたような造形が特徴になっている。ただし口縁ラッパ部と本体の接合部にある隆起線、二重ペディスタルなど、フランス製エンパイア・シェイプに必要な要素は全て満たした造形となっている。
 ハンドルはカールした末端部が百合文の造形をとり、羽状に開いた太いブリッジがこれを支えるという、複雑な造形になっている。ハンドル下端部にはホタテ状の貝殻型の装飾が造形されている。
 金彩にはエッチングとニードルでアカンサス文様と五稜の星文が描かれ、緑地の部分にある花絵と同様の模式的な立花文もあしらわれている。
 ソーサーにも金彩を施した立派なペディスタルが付けられ、表面にはエッチングで葡萄の葉と蔓が描かれている。
 





ダルテ・ブラザーズ(パリ、ド・ラ・ロケット通り)
1808〜25年 オレンジで DARTE FRERES の窯印
タス・リトロン:H=62mm、D=60mm/スクプ:D=126mm
 1800年代初頭のパリには、ダルテ三兄弟が経営する窯が二つあったが、本品はそのうち、ルイ・ジョセフとジャン・フランソワが1808年に提携して建てた窯で製造された。
 ダルテ・ブラザーズの装飾は華麗で贅沢、重厚な器形の食器にふんだんに金彩をかけ、強いトーンの地色に上品な風景画などをあしらった貴族好みのデザインで知られる。
 本品はダルテ・ブラザーズ初期の作風を知るには好適な作品で、ナポレオン好みのネオ・クラシックの影響を受けた、金彩と僅かな褐色のみの装飾で、この時期にフランスで流行していた、豪華できらびやかながらも硬く冷たい様式をうかがうことができる。デザインはロゼット文や蔦の葉文など古典的意匠で統一され、文様の濃淡は金彩を磨き残すことで表現している。ハンドルはパリ窯業群が多用したインナー・スパー付きのプレーン・ハンドルである。
 やがてナポレオン失脚の後、ダルテ窯の作風もビーダーマイヤー様式の影響を被り、ダゴティー窯風のデザインに傾いた。
 

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