クリニャンクール・ムシュー
1780〜90年
ティー・カップ:H=51mm、D=85mm/ソーサー:D=134mm
本品はクリニャンクール窯が1820年頃に製作したティー・カップで、図柄の構成要素が多く、複雑な意匠を統合したデザインになっている。
 紫色の花弁の下部に黄色をさした細長いチューリップ文様の左右には、短い枝が生えた細い植物が金彩で描かれている。さらに、交差する灰色の植物を基準にオレンジと灰茶色のスクロールが立ち上がり、スクロールの終結部には六弁の花が置かれる。このスクロールは金彩の楕円リングで繋がれ、その中心を金彩の矢が貫いている。双方のスクロールが一体となってハート型に見えることから、中央に矢を描いた意味が生きてくる。
 それぞれの文様はソーサーに四カ所、カップに三カ所ずつ交互に配置されている。この二種類の文様を起点として、金彩のフェストゥーン(花綱)が八連(カップは六連)描かれ、交差する灰色の植物の部分にはフェストゥーンを結び下げるリボンがあしらわれている。
 ソーサー中央には紫色の花と、それを取り巻く繊細な植物文様が金彩で描かれている。
 磁胎は透光性が高い硬質磁器で、滑らかで白い釉薬に覆われている。仕上がりにはほとんど文句の付けようがないほど上質な白磁が使用されている。
 






クリニャンクール・ムシュー
1780〜90年
コーヒー・カップ:H=64mm、D=79mm/ソーサー:D=129mm
 クリニャンクール(あるいはモンマルトル)窯は、ピエール・ドリュエルによって開設された、パリ窯業群屈指の真正硬質磁器窯である。
 ドリュエルは1724年に生まれ、妻の実家の資産だった義母名義の建物を1767年に譲り受け、そこを工場とした。磁器焼成には1771年に成功し、本格的生産を行うようになった。操業開始から四年後の1775年に、プロヴァンス伯ルイ・スタニスラ・ザヴィエ(後のルイ十八世)の庇護を受けることになり、工場は「クリニャンクール・ムシュー(殿下の工房クリニャンクール)」として知られるようになった。これ以後はプロヴァンス伯のイニシャルである「LSX」を組み合わせたモノグラムの窯印を使用する許可を得た。
 クリニャンクール窯ではセーヴル窯の影響を受けた高度で洗練された秀作を製造する一方、日常用の生活食器も量産した。職人は百人を数えたという。特にウィーン窯の絵付け師ゲオルク・ランプレヒトを1783年に招聘して以降は、装飾技術の水準が飛躍的に向上した。ランプレヒトは翌1784年にセーヴル窯に雇われ、1787年まで同窯に在職した。
 1784年五月十六日、パリ市在の九か所の有力民窯に対し、フランス政府が色絵・金彩使用の勅許を与えると、クリニャンクール窯も指名されてパリ九窯の仲間入りを果たした(「アンティーク・カップ&ソウサー」p.32参照)。1792年には、ドリュエルの女婿で絵付け師のアレクサンドル・モワット(1750〜1828)に経営が交代した。モワットはフランス革命による混乱期に耐え、1798年にはパリ・フェイドー通りに念願の小売り店舗を開設したが、翌1799年に工場建物を売却し、クリニャンクール窯は閉鎖された。

 本品は不透明で滑らかな釉薬を持つ硬質磁器製で、漏斗型をしたフレンチ・スタイルのカップには、細く繊細なハンドルが取り付けられている。
 優れた画力で巧みに描かれた苺の実と葉のボーダー文様に、金彩で別の柔らかい植物と、苺の蔓が混じって描かれている。図柄の中心に黒い直線が引かれているので、この文様は自然の写しではなく、様式化された「パリ・ボーダー」であることがわかる。
 

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