チェルシー=ダービー
1769〜84年 金彩で錨とDを組み合わせた窯印
コードルカップ:H=75mm、D=77mm
 1745年以来ロンドン市街のチェルシー地区で、フランス風の磁器を焼いていたチェルシー窯は、1769年、ジェームズ・コックスに売却され、翌年ダービー窯のウィリアム・デュズベリに買収された。デュズベリはダービー窯の経営に参画する以前に、ロンドンで絵付け工房を営んでおり、この頃からチェルシー窯と密接な関係を保持していた。
 デュズベリはチェルシーを買収した後も、工場をそのままチェルシーに置いて製作を続行させた。これは主に二つの理由によるもので、第一に工場用地のリース期間に残りがあったこと、第二にチェルシーのネームバリューによる販路・価格の維持である。またダービー窯の製品も、窯元セールの他の大部分は、結局ロンドンに輸送して小売りしていたため、チェルシー工場の継続は製品流通の面にも貢献していた。
 チェルシー窯はセーヴルやメヌスィー(ヴィルロワ)などの美しい色絵磁器のコピーを、フリット軟質磁器で製造し、加飾技術に優れ、当時から高級メーカーとしての評価と価格を獲得していた。そこでデュズベリは旧チェルシーの製品を中心に、そのままの色絵技術で製造させた。窯印はチェルシーの錨のデザインに、自身のイニシアル「D」をあしらった(「D」は「ダービー」の頭文字ではないとされる)。
 ただし材土と焼成法には変更が加えられ、初期チェルシーで一般的だった三点コーンで支えた宙焼きが少なくなり、透光時に磁胎に現れる気泡(いわゆる「チェルシー・ムーン」)も見られなくなった。これにはチェルシー工場では磁器を焼くことをやめ、絵付け用の白磁はダービー工場でのみ製造したためだとの説がある。
 チェルシー工場とダービー工場が並立していた時期を、「チェルシー=ダービー期」と呼び、「金彩で錨とDを組み合わせた窯印」がこの時代を代表するマークとなっているが、本品のようにこの窯印が付された一連の作品群は、全てダービー窯で製造されたものであろうというのが、近年の定説になりつつある。

 この作品はセーヴルの完全コピーである。口縁下部のブリュ・ド・ロワ地とその上の金彩の花文様(「ヨーロッパ アンティーク・カップ銘鑑」p.17、3番参照)、本体メインの羽状文様と顔料の置き方など、セーヴル窯の技術とほぼ等しく、窯印がなければセーヴル製と見間違えてしまうほどの水準である。
 チェルシー窯やダービー窯で、なぜ本品のように高度な絵付けの製品を生み出すことができたのかというと、旧チェルシー窯に出資して実質的なオーナーであったエヴェラート・フォークナーが、駐仏大使や駐ザクセン大使などを務める外交官(貴族)達と親交があり、彼らがイギリスに帰国する折に、多くのセーヴル磁器やマイセン磁器を持ち帰ってもらうよう依頼できたためである。こうしてもたらされた大陸王立窯の作品は、チェルシー窯にセーヴル風の加飾を可能にさせ、ダービー窯にマイセン風の造形をもたらしたのである。
 本品に見られるような高品質の作品は、デュズベリによる買収直後の1770年代に集中して生産された。買収から十年が経過して1780年代になると、製品の水準は低下して窯を継続する意義を失い、チェルシー工場は1784年に廃窯された。その後、残った原型、パターン帳、職人はダービー窯に移った。
 

 

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