コラム1
『媚薬と毒薬−モンテスパン侯爵夫人の黒ミサ−』
素磁:セーヴル(旧軟質磁器)、絵付け:19世紀のパリの工房
ティーカップ:H=62mm、D=82mm
 
 
 「モンテスパン侯爵夫人」という名前は、ブルボン王朝にかかわる女性達の中でも、ひときわスキャンダラスで忌まわしい人物として記憶されている。
 ブルボン王朝には「公式寵姫(公妾)」という制度があった。フランス国王は正妻の王妃の他に、一名の側室を置くことができる、と法律によって公式に定められていたのである。モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスは、野心と上昇志向が大層強かった人物で、ルイ十四世の王妃マリー・テレーズの侍女として宮廷に仕え始めると、公妾の地位を狙った画策を始め、遂に公妾ラ・ヴァリエール嬢ルイーズ(後に伯爵夫人)を追い落としてルイ十四世の公妾となった。王との間に七人(モンテスパン侯爵との間には二人)の子供を設けて地位の安泰をはかった。事実彼女が生んだ子は長女ルイーズ・フランソワーズ、長男ルイ・オーギュスト(メーヌ公爵)から末子のルイ・アレクサンドル(トゥールーズ伯爵からパンティエブル公爵へ、後にランブイエ公爵)に至るまで優遇され、男子は全員公爵に叙せられている。
 このように公妾が生んだ子でも高級貴族として十分に生きてゆける土壌ができており、この地位は内政、外交、戦争、人事、芸術など、幅広い宮廷政治と宮廷文化に対する大きな発言力を持つことも珍しくなかったし、常に社交界の花形であり続けた。ルイ十五世の公妾であったポンパドール侯爵夫人や、それに続くデュ・バリー伯爵夫人などが、この代表格である。公妾を表立たせることはむしろ、王や王妃に対する不満や批判をかわす面からも重要な意味を持った。したがって公妾を置かなかったルイ十六世のような場合、王と王妃マリー・アントワネットの生活ぶりや発言が常に表に出てしまい、不満が王室本体に集中するという結果を招いてしまったわけである。
 しかし前述のように、公妾は一名しか置くことができない。現在の公妾への王の愛情が薄れ、別の女性を愛したいと思ったならば、今の公妾を廃して新たな女性を任命することになる。この頃ルイ14世の愛情は他の女性に振り向けられ、モンテスパン侯爵夫人は自分がしたのと同様の仕打ちを受けて失脚することを恐れ、王の愛情を繋ぎ止めようとした。その挙げ句に彼女が頼ったのは「黒ミサ」だった。
 「黒ミサ」というのは女性の肉体を祭壇とし、嬰児を殺して生き血を振り掛け、あるいは飲み、ルシファーやその捲族のサタン達を降霊し、逆十字架を用い、聖書を逆さに読んで呪句とする、といったショッキングなものであった。
 モンテスパン侯爵夫人の黒ミサを主宰したのは神秘主義者のギブール神父と、生きた嬰児やいかがわしい薬品を扱う闇の商人達で、彼女は合計三回の黒ミサを行ったことが警察の調書と裁判で確認されている。
 最初は王の愛情を繋ぎ止めるのみを祈願する黒ミサで、モンテスパン侯爵夫人は全裸体を祭壇上に横たえ、その上で嬰児の首を切って生き血を浴び、その血をワインに混ぜて飲んだという。さらに呪詛のこもった赤子の血と淫剤を混ぜた媚薬を作り、王に飲ませようという計画であった。しかしこのミサの成果は現れず、その後ルイ十四世の愛情は薄れてゆくばかりであったという。
 遂に1678年、モンテスパン侯爵夫人は公妾の地位を失い、マリー・アデライード・フォンタンジュが次の公妾になった。そこで最後の三回目の黒ミサは、赤子の血を混ぜた呪いの毒薬によって王を殺害しようとする毒殺計画のために開かれた。しかしこの企みは未然に露見して、1679年、警察による一斉逮捕が行われた。ルイ十四世はフランスにおける黒ミサ実施について寛容な政策を採っていたが、自身の暗殺未遂まで事件が発展するに及び、これを看過できなくなったようである。
 この「モンテスパン侯爵夫人事件」はブルボン王朝空前のスキャンダルとなり、容疑者は三百六十名を越え、うち検挙者二百四十名以上、有罪判決百十名以上という事態となった。死刑は首謀者・直接幇助者のうち平民階級のみ三十六名で、毒薬と嬰児提供者のラ・ヴォワザン夫人は火あぶりになるなど、各々極刑に処せられた。貴族階級は終身刑や追放刑となった。
 容疑者、逮捕者、受刑者の順でかなりの減員が見られるのは、それぞれ身分と地位のある人々があまりに多く黒ミサ関連に手を出していたため、容易に処分できなかったことと、黒ミサの隠微な有様や自分の暗殺未遂などが公然と暴かれてゆく裁判に強い嫌悪感を抱いたルイ十四世が、これ以上聞きたくない、と途中から多くの裁判を中止させたことによる。
 当のモンテスパン侯爵夫人には全くお咎めはなく、裁判にもかけられなかった。彼女はルイ十四世の「元公妾」であり王の庶子の母だったからである。しかしこの一件以来、王は夫人を避けるようになってしまい、王の愛情もモンテスパン侯爵夫人の子供達の養育係だったマントノン侯爵夫人に傾いてしまった。
 モンテスパン侯爵夫人は数年間宮廷内に留まり、ルイ十四世から遠く離れた部屋をあてがわれたが、公妾を追われた女性は嘲笑の的となり、その生活は哀れなものであったという。それでもモンテスパン侯爵夫人が宮廷から去らなかった理由は、彼女には行き場所がなかったためである。
 昔モンテスパン侯爵夫人が公妾になる時、夫のモンテスパン侯爵は強く反対し、ルイ十四世を激しく恨んだ。彼は夫人に真実の愛を捧げていたといわれる。侯爵は領土に大掛かりな葬式馬車を走らせて「侯爵夫人は死亡した」とふれ回らせ、宮廷にも黒ずくめの喪服で現れ、王の不貞を公然と非難したため、ルイ十四世の怒りを買って投獄され、パリから追放された。しかし侯爵には借金があり、離婚裁判でそれを清算するに十分な金を王から受け取り、結局は夫人を売り渡して領地へ引き下がらざるを得なかった。王権と借財に破れた極度の愛妻家は、この出来事を純愛と貞節の死として大いに嘆き悲しんだ。
 公妾を追われた後、モンテスパン侯爵夫人は夫の侯爵に対して、領地に帰らせてほしいと請願したが、侯爵は夫人の帰国を決して許さなかった。美しい思い出だけを残し、彼女は死んだものとして二度と会わない決意を固めていたのである。
 そこでモンテスパン侯爵夫人は、自分が追い落としたラ・ヴァリエール嬢をはじめ、多くの元公妾がそうしたのと同様に修道院に入り、その地で静かに余生を過ごし、1707年に亡くなった。

 さて、写真に示したカップに描かれた女性は、高台内の裏書きによれば「マダム・ド・モンテスパン」である。モンテスパン侯爵夫人は地位が地位だけに、多くの肖像画が残っている。この絵が夫人に似ているかどうかはさておいて(これとよく似た髪型と顔つきの絵はある)、上流婦人らしく真珠の髪飾りを付けた贅沢な姿で描かれている。
 またこのカップ&ソーサー(ソーサーには肖像画なし)には、青色でセーヴル窯のLLを組み合わせたモノグラムの窯印、年号を表す「K」、絵付け師を表す「2000」の書き入れがある。これを字義通りに解釈すれば、1763年製でアンリ・フランソワ・ヴィンセントの絵付けということになるが、まず贋作とみて間違いない。
 十八世紀のセーヴル窯で、百年も前の十七世紀の王宮で活躍し、しかも前述の如きスキャンダルの主であるモンテスパン侯爵夫人の肖像を、果たしてテーブルウエアに描き込むものかどうかがそもそも疑問であるが、ともかくも白磁は十八世紀のセーヴル製である。カップはひねりハンドルをもつ「ゴブレ・エベール」、ソーサーも織田瓜形に緩い五つの輪花をなす「スクプ・エベール」の上下セットで、それぞれに吊し焼きの穴がある。こうした白磁は比較的廉価に入手可能で、かつ大量に販売されていた。この古いセーヴル白磁に、十九世紀になってから絵付けを施したものが本品である。モンテスパン侯爵夫人の肖像メダイヨンの周囲にあしらわれた、ルビーとトルコ石のエマイユ・ビジュー(エナメル・ジュール)は1763年当時には技術がなく、1770年代後半から1780年代に作例が現れると考えてよい。
 本品は肖像画に品があって美しく、ビジューは細かくて形も良いが、美しくバランスがとれた作品だからといって、それがセーヴルの真正品だとは限らない。顔料の質や色具合なども検討しなければならない。まして金彩に粗雑な乱れがあるようなものは、ほとんどの場合贋作である。
 本品のような品質のカップ&ソーサーが贋作であると書いてあるのを読めば、当惑される方も多かろうと思う。もっと粗悪な作品でも「真正のセーヴル製」として販売されているからだ。肖像画入りの「セーヴル」は、それがセーヴル窯製であるかどうかには関係なく、作品に惚れ、作品に納得した場合にだけ手に入れる方がよいと思う。贋作でもよいと思えるほど美しく、気に入った品物ならば購入後も問題は起こらない。ただそれを「セーヴル製です」と店から言われて買うのは気分が悪い。それから、ビジューと色絵に優れた作品は、たとえそれが贋作だと判ったからといって、さほど価値が下がるものではないことを記しておく。

 

 

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