コラム10
『彷徨う亡霊 −タンタロン城で撮られた2枚の心霊写真−』
ロイヤル・ウースター
1938年 ピンク色のプリントで商標登録されたロイヤル・ウースター社の通常の窯印
ハリー・スティントン画(画中にStinton、底面にTantallon、というハリー・スティントン自筆の書き込み)
コーヒー・カップ:H=48mm、D=51mm/ソーサー:D=111mm 
 



 

 スコットランド地方エディンバラから東へ約40q、ノース・バーウィックの東方約5qに建つ廃墟の古城「タンタロン」は、ウィリアム・アーチボルド・ダグラスによって1350年前後に建設された。ダグラスはスコットランドにおける家名と領地相続権争いを巡ってフランスから帰郷し、リッデスデールのサー・ウィリアム・ダグラス(ウィリアム・アーチボルドの名付け親である)を殺害して家名と領地を継承し、タンタロン城を造った。1358年には初代ダグラス伯の称号を手にしている。
 ダグラス伯家では息子の二代ダグラス伯ジェイムズが1388年に戦死すると、「レッド・ダグラス(赤ダグラス家)」と「ブラック・ダグラス(黒ダグラス家)」に分かれた子孫が城の相続を争うが、レッド・ダグラスが初代アンガス伯としてタンタロン城を継承した。以後はアンガス伯・赤ダグラス家の居城として子孫は繁栄し、スコットランド最有力の貴族の一つとなっていった。
 スコットランド王家との抗争などで、度重なる戦火をくぐりぬけたタンタロン城は、その時々の当主がキープ(タワー)の増築、外壁の改修、砲撃に備えた床の強化を行って巨大化し、堅固な要塞として難攻不落を誇った。しかしスコットランドの城塞を次々に破壊していったイングランドの軍人オリヴァー・クロムウェルによって1651年に破壊されたまま、廃墟となって今日に至っている。この戦闘では善戦する城兵わずか九十名に対して、数千のクロムウェル軍が十二日間に及ぶ砲撃を加え、かつて1528年にスコットランド王ジェイムズ五世の砲撃二十日間を耐えたタンタロン城も、遂に陥落したのだった。

 それから350年余が過ぎた2008年、突如タンタロン城の名前がマスコミを賑わわせた。それは中世風の衣装を身に纏った人物が写り込んだ「心霊写真」とおぼしき一枚が撮影されたためである。
 写真に捉えられた、襞襟にグリーンの装束でタンタロン城を彷徨う肉体なき魂が一体誰なのか、そしてこの写真が本物なのか捏造なのかが話題となった。

 まず人物については、初代ダグラス伯ウィリアム・アーチボルドではないか、という説が当然ながら囁かれた。しかし、この城に因縁浅からぬ、前述のスコットランド王ジェイムズ五世ではなかろうか、という説も有力である。
 このほかにもダグラス家に恨みを持つ人物には、スコットランド王ジェイムズ三世がいる。ジェイムズ三世は王としての品格や求心力がなく、政策実行力に欠けた人物と伝えられている。この王に対する反逆同盟が貴族有志間で結成され、1482年にジェイムズ三世のお気に入りだった建築家ロバート・コックレインをはじめ、王の寵臣達がこぞって捕縛され、ローダー橋の欄干から干物を並べるように吊されて粛正された。この時コックレインを逮捕して王への反逆の端緒を付けたのが五代アンガス伯アーチボルド・ダグラスである。彼は王の戴冠式を取り仕切って、この時代には最大の実力者として権勢を恣にしたが、有力貴族達の不平不満の気運を受けて、無能な王とその取り巻き連中を排除する策謀の中心的な役割を果たすこととなった。貴族達はイソップ寓話の「誰が猫の首に鈴をつけるか」で知られる『ネズミの会議』になぞらえ、勇気ある行動で貴族全員の総体的権益を守ったアーチボルド・ダグラスに、「ベル・ザ・キャット(猫の鈴)」の渾名を与えた。
 ジェイムズ三世は従来の貴族達に代えて「出自低き者達」を宮廷で側近く侍らせ、そのことに不満を持つ「出自高き者達」の手によって抹殺されたのだった。1488年、ソーキバーンの戦いで不平貴族達の連合軍に敗れた王は、そのまま処刑されてしまうのである。
 ジェイムズ三世が、なぜ貴族階級にない人物達に重きを置いたのかというと、そこには彼のホモセクシュアルな性癖が深く関与している。ローダー橋から吊された身分が低い寵臣達は、ほぼ全員がジェイムズ三世の同性愛相手として王に取り入り、宮廷に地位を固めていったことがわかっている。これは何もスコットランドに特有の事例ではなく、日本でも平安末期に院政を敷いた白河法皇〜後白河法皇の時代には、「院の近臣」と呼ばれる下級貴族が宸襟を安んずる役割を果たしていたが、これら身分が低い近臣達のほとんどが、院や藤原摂関家との男色関係にあり、そのような特殊な愛情関係による結び付きによって、院政という独特の権威集団が形成されていたのである。
 そしてジェイムズ三世の時代はもちろんのこと、イギリスではローマ・カトリック教会と袂を分かってアングリカン国教会を成立させた後までも、退廃の挙げ句に神の雷によって滅ぼされた男色の町「ソドムとゴモラ」にちなんで「ソドミー」と呼ばれた同性愛行為は、神への冒涜=犯罪であるという考え方は自然だったし、ヨーロッパ社会には19世紀末になってもなお「同性愛=犯罪・死罪」と考える国家や風潮が残っていたのである。
 ジェイムズ三世の首に「猫の鈴」をつけたアーチボルド・ダグラスは、次の王ジェイムズ四世とも対立し、イングランドと内通して王の身柄を引き渡そうとしたものの、計画が事前に露呈したため、王をかどわかしてタンタロン城内に幽閉した。やがてジェイムズ四世に与して王の奪還を目論むスコットランド貴族達が率いる大軍によってタンタロン城への包囲戦が仕掛けられたが、城は陥落しなかった。
 次に即位したジェイムズ五世が十三歳になる1525年に、義父に当たるタンタロン城主・六代アンガス伯アーチボルドが彼を同城内に幽閉し、三年後の1528年に王が城から脱出して親政を回復するまで、ジェイムズ五世を差し置いたダグラス家の専横が続いた。これが同1528年に勃発した砲撃二十日間の戦闘の原因となった。タンタロン城はこのときも一向に陥落しなかったものの、膠着状態の打開のため、六代アンガス伯アーチボルドはイングランドに退去し、開城されたタンタロン城は王の手中に落ちた。しかし後に再びダグラス家へ返還されている。タンタロンは城主ダグラス一族を常に戦死させることなく護り抜いた、スコットランド有数の堅塁といえるだろう。
 このジェームズ五世がソルウェイ湿原の戦闘に敗れた直後に三十歳で謎の急死を遂げると、跡を襲ってスコットランドの王位を継いだのが、陰謀と血に塗れた女王メアリー一世(メアリー・ステュアート)である。

 こうしてみると、タンタロン城内に軟禁・監禁された王はジェイムズ四世と五世であるから、こうした王達の霊魂が浮遊していないとも限らないわけだ。

 さて、2008年5月にタンタロン城で撮られた写真はどのようなものかというと、鉄格子がはまった高窓の中から、おそらく男性と思われる怪しの人物が外を眺めているといった図になっている。この城にはこのような衣装を着けた職員などはおらず、縮尺からも通常の人間に相当するサイズではなく(大きい)、また見えている位置も窓に比べて高く、踏み台でも使わない限りは宙に浮いた状態にあるのだそうだ。しかも解析の結果、修正やデジタル処理の痕跡はないという。
 この記事が報道されるや、英国のみならず世界中の古城ファンや心霊写真マニアに衝撃が走り、一部統計によれば、40%の人がこの心霊写真を「本物」と思ったとも、また60%が「信じた」とも言われ、とうとうインターネット投票による「2008年世界の心霊写真ベスト・ワン」に選ばれる結果となった。
 タンタロン城には、俺もアタシも心霊写真を一丁撮ってやろうという「俄か撮り霊」がデジカメ片手にわんさか押し寄せて、一大心霊観光スポットとなってしまった。しかしながら、霊体というものは「撮ってやろう」という意気込みが大嫌いのようで、鼻息粗く詰めかけた連中のカメラには、今までサッパリ亡霊の姿は写っていない。したがって霊の正体が王様なのか城主のダグラスなのか、結局はわからずじまいになっている。
 
 ところが、この話には更なる後日譚がある。「タンタロン城の幽霊」騒動が広まるにつれ、それを知ったエディンバラ在住のヒュー・ラムとグレース・ラム夫妻が「あら、そういやうちにもこんな心霊写真があるわ」ということで、騒動の翌2009年になってハートフォード大学のリチャード・ワイズマン教授宛に写真を送ってきたのだ。
 撮影者のグレース夫人は2009年当時は65歳で、32年前の1977年に家族旅行で訪れたタンタロン城で撮影した一枚に、やはり2008年撮影の写真と同じように、中世風の衣装を身に纏った怪しい人影がカラーで写り込んでいるのだという。シャッターを切ったのはグレース夫人、夫と二人の子供が写っているが、夫の頭の上にある窓にはこちらを見る「霊体」がいる。鑑定の結果、この一枚にも修正の痕跡はないそうである。
 この写真の存在が「第二のタンタロンの亡霊」として報じられると、2008年に撮影された心霊写真の真実味を補完する資料として、またまたオカルトマニアを喜ばせるトピックとなった。 

 このコラムを読んで興味を持たれたら、「tantallon ghost」あたりの検索ワードで、インターネット上にある画像を検索してみていただきたい。タンタロン城で撮影された二枚の写真がずらりと出てくる。<閲覧注意>というような心臓に悪い画像ではなく、ホラーが大嫌いの筆者が見ても別段怖くはなかったので、一度お試しあれ。

 ところで、今回取り上げたカップ&ソーサーは、ロイヤル・ウースター社が1938年に製造したもので、タンタロン城の絵を描いたのはハリー・スティントン(1883〜1968)である。
 ハリー・スティントンは、20世紀磁器最大の風景絵付け師として名高いジョン・スティントン・ジュニアの四男として生まれた。祖父ジョン、父ジョンJr.と続くグレンジャーズ・ウースター系の画風を忠実に受け継ぎ、父譲りの「ハイランド地方の牛」をはじめ、スコットランド地方の風景画に才能を発揮した。
 グレンジャー系の絵付けとは、白い余白の部分を大きくとってモティーフを描く。これに対してハドレイズ・ウースター系の絵付けでは、地色を黄色く塗り、その上に絵を描く。これはハドレイズ・ウースターでは装飾的な花瓶などを製作する際に、より可塑性の高い「パリアン陶(カッラーラ素磁)」を使用した名残として、下地をパリアンに似せて黄色っぽいクリーム色に塗ってしまったために起こる差異である。
 グレンジャー出身の絵付け師達とハドレイ出身の絵付け師達とは極めて仲が悪く、ロイヤル・ウースター社ではトラブル回避の目的から両派が働く工房を分離していたため、それぞれの芸風が混ざり合うことはなかった。

 生来の病弱で、しかも先天的に足が不自由で歩行が困難だったハリーだが、取材を兼ねたスケッチ旅行でスコットランド地方を歴訪し、そこで立ち寄ったタンタロン城を含む六種類の古城を描いたデミタス・セットを製作しており、これらはいずれもハリー・スティントン畢生の名作である。ただしハリーの描いたスコットランド地方の古城図のカップ&ソーサーは稀少で、市場に出回ることはほとんどない。
 ここでは城の西側にあたる湾の一番奥の角から望んだタンタロン城が描かれており、手前にひときわ目立つ塔が六階建ての偉容を誇る「ダグラス・タワー」、向かって右手に二本の角のような構造を持つ部分が、城の大手門にあたる「ミッド・タワー」である。カップの絵のほうがミッド・タワーの構造がわかりやすい。
 人跡の通いがなくなり、軍船も海底に安らいで、時代は流れても、なお寄せては砕ける波濤の営みは変わらず、重く垂れ込める暗雲は往時を語る。悲糸急管の調べにのせて、この城にまつわる血なまぐさく、もの悲しい逸話を詩人が詠吟する幻を彷彿とさせる、荒涼たる寂しい廃墟の姿である。

 

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